自分が襲ってくる! ドッペルゲンガースリラー『Us/アス』の予測不可能展開に悶絶しろ!
「自分そっくりの容姿をしたもうひとりの邪悪な自分に襲われる」というシチュエーションはホラー映画によくある題材だが、この映画はなんと自分だけでなく、自分の家族そっくりの「わたしたち」に襲われるというブッ飛んだ展開がヤバイ。
邪悪な自分ひとりくらいならまだ気楽だが(逃げやすいという意味で)、家族一緒にともなるとちょっと大変。
邪悪な夫、邪悪な嫁、邪悪な娘、邪悪な息子、なにこれ地獄じゃん。
幸せに暮らしていた平凡な家族に、何の前触れもなく襲い掛かる「ニセモノの家族」の恐怖。
いや、実は「前触れ」は遠い昔にあった。
この映画の核となるのは、その「前触れ」の部分なのだ。
突如現れたニセモノはいったい何なのか? その目的は?
スリリングで謎に満ちた理不尽かつ理解不能な恐怖を、時にユーモアを交えながら軽快に描くのは、傑作スリラー『ゲット・アウト』(2017)でアカデミー脚本賞を受賞したジョーダン・ピール監督である。
不吉なことが起こりつつある違和感、降りかかる意味不明な災難、そして冗談としか思えないような驚きの真相解明と、大胆でありながらも冷静沈着な脚本&演出が特徴。
今回も『ゲット・アウト』同様に、一見してどんな映画なのかが見えにくい、最後までその全貌を予測できない作品となっている。
つまり、『Us/アス』におけるドッペル家族の襲来にはもちろん大きな“意味”がある。
その“意味”がわかるのは物語の超終盤であり、観客はラストのラストで、残暑などなかったかのように死ぬほど背筋を寒くするという寸法だ。
ドッペルゲンガーの恐怖とは?
「この世の中には自分そっくりの存在が3人いる」といった話を子供時代に聞いたことがある。
当時は、自分のそっくりさんがどこかにいるというファンタジックな話に素直にワクワクしていたが、いま考えると絶対に会いたくないなと思える。
自分と瓜二つの顔を持つ他人と遭遇するなんて恐怖でしかない。
ドイツ語で「分身」を表す“ドッペルゲンガー”という現象は、自分が「もう一人の自分」を目撃してしまうことで、それは自身の死の前兆を意味するとして恐れられている。
つまり、ドッペルゲンガーを見てしまった者は近日中に絶賛死亡確定というわけである。
ニセモノがホンモノを殺し、なり替わってホンモノとして生き続けるという説もあれば、単純に「自分」を見てしまったショックから精神に異常をきたして死を迎えるという説もあるそうだ。
ドッペルゲンガーは不吉な概念であり、モンスターや幽霊に匹敵するほど人間にとっての恐怖の対象なのだ。
ではなぜ「自分」がこれほど怖いのだろうか?
対峙する「もうひとりの自分」が、自分とは正反対の人間であることへの恐怖か、あるいは自分自身が社会生活で隠している“本性”の具現化であることへの恐怖か。
相手が「自分」だからこそ、思考や行動もまた「自分」と同じですべて読まれてしまうという恐怖もあるかもしれない。
とにかく、自分自身がいちばん理解しているはずの「自分」が、理解できない存在として目の前に現れる恐怖こそがドッペルゲンガーの恐ろしさなのだろう。
ジョーダン・ピール監督は、史上もっとも恐ろしい物語を創る上でそこに着目したのだ。
この着眼点、そしてドッペルゲンガーをきっかけに広がる、アメリカの社会における貧困や格差への問題提起とも言える壮大な展開に驚愕を隠せない。
敵は自分であり「わたしたち」、つまり社会なのだ。
まとめ
自分にそっくりの人間は存在する。
それは科学的にも立証されており、もともと人間の顔の特徴を決める遺伝子の数は限られているということなので当然と言えば当然の話だ。
しかし、ドッペルゲンガーは単なる「そっくりさん」ではない。
「自分そのもの」であるというところに救いがたい絶望と恐怖がある。
さらに『Us/アス』は決して怖いだけの映画ではない。
混乱の中に描かれる人間の強さや滑稽さ、テンポ良く進むスリル満点なサバイバル展開、ホラーエンターテイメントとしての完成度の高さに誰もが驚くだろう。
100点満点!
殺し屋冒険ファンタジー『ジョン・ウィック:パラベラム』はシリーズ最高のキチガイ指数を更新!
ワンちゃんを殺された最強の殺し屋のクレイジーな大冒険を描いた『ジョン・ウィック』シリーズ3作目は、ストーリーがムチャクチャすぎて全く理解できないが、そんなものは関係ないほどに面白い出来事がたくさん起こるのでもうそれでいいんだと思う。
とにかく物語は大筋で「なんとなくこんな感じ」といった程度になっていて、あとはジョン・ウィックさんが街に異常にたくさんいる殺し屋たちに襲われるだけ。
もはやこの世界には殺し屋しかいないのだろうか? と思わんばかりにそこら中に殺し屋さんたちが営みをしていて、当然のように「寿司屋」とか「ルンペン」とか「警察官」とか、仮の仕事をしてはいるけど、ここまで競合が多いともう殺し屋としてやってくのが大変だから副業して他の仕事やってんのかもしれない。いや副業で「ルンペン」はねーだろさすがに。
たしかジョン・ウィックさんは、1作目で愛犬を殺されて愛車を盗まれて、結構ひどい目に合ったからしょうがなく復讐に乗り出したはずだったが、2作目ではもうどう考えても「自分から過酷な環境に身を置こうとしているとしか思えない」ような自虐的判断ばかりして、引退とか平穏とかいったいどの口が言ってんだよ状態でもう笑うしかない。
ジョン・ウィック、何がしたいんだ!
そんな単純かつ素朴な疑問を打ち砕くシリーズ3作目「パラベラム」、その意味はラテン語のことわざ【平和を望むなら闘いに備えよ】ということで、結局ジョン・ウィックお前はやっぱりなんだかんだで安らぎを求めていたんだね、だからこそ再び殺し合いに身を投じたのか。ふむ。納得(無理矢理に)
平和、平和、平和、、、などとつぶやきながらも次々と刺客を残虐にブチ殺すジョン・ウィック。
「悲しいけどこれ戦争なのよね」
スレッガー中尉さながらの悟りをその髭面にたたえつつ、殺し屋業界を追放されてひとり敵だらけの街をさまようのであった。
シリーズ最大の死人数を更新!
ジョン・ウィック最新作は、本作一本で『13日の金曜日』シリーズ全作品におけるジェイソンの殺人数をブチ超えたのではないかと思うほどの殺戮大合戦となっている。
業界を追放されたジョン・ウィックにはとんでもない賞金がかけられ、一攫千金を狙う大勢の殺し屋に命を狙われることになるのだが、そんな奴らがことごとく返り討ちにされるので死体の山は必至。
しかも最強&不死身なジョン・ウィックは、どんな状況だろうが周囲に転がっているモノを利用して人を殺害できるので、もはや拳銃なんか使わずに行き当たりばったりで敵を殺すのだ。
つまり、殺傷能力が低めの方法で強引にトドメを刺されるので、そりゃあもう悲惨な死に方をする人が続出。
殺されるのは「悪い殺し屋さん」たちなので、まあ因果応報だし、それはそれでスカっとしてしまうから本当に困る。
さらに今回ジョン・ウィックは、犬や馬や美女(まさかのハル・ベリー)などの生き物をも巧みに使って戦うので、そのへんの殺戮チームワークなんかも見どころだ。
業界全体を敵に回したジョン・ウィックが、彼を支援する人たちも巻き込んで、行く先々で展開する楽しすぎる大虐殺(推定死者数5億人)を堪能できるぞ。
ストーリーが意味わからない
ジョン・ウィックの世界観はかなり独特である。
まず殺し屋、多すぎ。
犬、賢すぎ。
ホテル、一般人いなすぎ。
警察、仕事しなすぎ。
業務機材、アナログすぎ。
まさにファンタジーのような世界で、そこに課せられた現実離れしたルールに基づいた物語が展開する。
裏社会の支配者、殺し屋の掟、血の誓印。
劇中に突如出てくるこの世界の社会システムを、われわれ観客は初耳なので「なるほど、そんなものなのか」という気持ちで受け入れながら鑑賞するわけだが、当然すべて「なんとなく」しか理解できない。
よって、たまに「ジョン・ウィック、何やってんだろ」という気持ちがアタマをもたげてくるのである。
しかし、そういった疑問が心の奥底に引っ掛かりつつも、面白すぎるアクション&バイオレンスが深く考えることを拒絶する。
そもそもジョン・ウィックという人の行動そのものも意図がまったく見えてこない事が多い。
殺し屋を辞めたいのに、わざわざ刺客を送り込まれるようなことばかりして、毎度わざわざ窮地に陥ってみたりするジョン・ウィック。
街中に同業者がたくさんいることを知りつつも、わざわざ賞金首になるようなことを選択するジョン・ウィック。
わざわざ殺し屋たちのターゲットになったくせに、襲われると困り顔、もしくはうんざり顔で対応に追われるジョン・ウィック。
ジョン・ウィックのピンチはすべて「わざわざやってる」と思わせるピンチばかりでまーったく理解できないのである。
“ピンチ依存症”
生きるか死ぬかの世界において、そんなアホな依存症があっていいのだろうか?
いいのである。
だってジョン・ウィックなんだもん。
つまりこの映画、現実離れしてブッ飛んだすべての展開が“ピンチ依存症”で説明できてしまうので驚き。
バカが喜ぶキャスティング
なんてったってキャストが凄い。
ライバル関係となる組織の凄腕殺し屋はなんとマーク・ダカスコス扮する日本人の忍び。
そんな実写版クライングフリーマンの部下として登場するのが、シラット使いのお馴染みすぎる2人組である。
もはやハリウッドのアクションクリエイターたちにとって『ザ・レイド』は聖典なのだろうか。
特にヤヤン・ルヒヤンはどんな映画でもまったく同じ役柄で現れるのでマジ恐ろしすぎる。
ほかにも、『マトリックス』の続編のウワサが囁かれる中でのモーフィアスとの共演(これまた似たような絵ズラ)があり、年を重ねるごとにセクシーに磨きがかかるハル・ベリー嬢も参戦しムチャクチャ殺しまくる。
そんなクセのある出演者たちに囲まれてご満悦の主演キアヌ・リーブス。
映画好きにたまらないマニアックなキャスティングがこの作品の大きな魅力なのである。
まとめ
全世界を敵に回したジョン・ウィックの運命がいかに?
いやいや、みんな知っていると思うけど、全世界の殺し屋が全員勢ぞろいしてもジョン・ウィックには勝てない。
俺たちは、このシリーズでジョン・ウィックの神話を目撃する、歴史の証人なのだ。
当然4作目も5作目も作られるだろうから、寅さんのように毎年作ってご長寿シリーズになって欲しいジョン・ウィック。
『マトリックス』なんかいいから、ずっとコレやっててくれキアヌ。
今年ベスト確実の大傑作『ロケットマン』、音楽好きはもう死んでも観なきゃダメ!
音楽好きならば、所持しているCDをすべてブックオフに売っぱらってでも観なきゃいけない映画『ロケットマン』は、エルトン・ジョンのド壮絶な半生を描いた、愛と呪いの超絶ミュージカルである。
そう、とにかくこの作品は「呪い」に満ちている。
あの類まれなる「音楽の才能」を得る代償として、エルトン・ジョンは「愛にめぐまれない」呪いにかけられたのではないか? と思うほど、幼少時代から見事に呪われまくっているのである。
両親からの愛を受けたくてもそれが叶わない現状、それを打破するべくのめりこんだ音楽の世界で、ご存知のとおりに彼は大成功を納めるが、結局どう頑張ったところで両親には愛されない。
なんという哀しい物語だろうか(しかも実話)
なのにこの映画は、そんな発狂レベルに可哀想な物語を、ノーテンキなポップミュージックで歌い踊り飛ばすのだ。
ミュージカル映画と言えば、もともと派手でテンションの高い作風なのが常識だが、『ロケットマン』は通常の3倍の派手さ&テンションで襲ってくる。
なぜならエルトン・ジョンは衣装がバリ派手、愛に飢えているためか精神が常に躁状態。
オープニングから、常人だったら羞恥プレイ過ぎて死にたくなってしまうほどの激ヤバ衣裳で堂々登場するエルトン役のタロン・エガートンに悶絶&ショックを受けるほど、アタマからシッポまでたっぷりとド派手が詰まっている。
とにかくタロン君がとんでもなく巧い。
イケメンなのに、どことなく醸し出すイモ感、神経質感、変態感、さらにカリスマを感じさせるオーラをも身にまとい、当初は吹き替えで済ませる予定だったというライブシーンも、すべて自身で歌い上げたというからオドロキ。
タロン君はエルトン・ジョンとして違和感のない超絶歌唱テクを披露している。
こういったミュージカル映画は、普段見慣れた俳優たちのまさかの歌唱力に驚くことが多々あるが、今回のタロン君はレベルが違う。
なんてったって、世界的スーパーアーティストの名を名乗ってのパフォーマンスだからである。
「結構巧いよね」程度の歌唱力では務まらない。
製作総指揮であるエルトン・ジョン本人が納得するだけの歌唱力&表現力を、しっかりと持ち合わせているのである。
ライブシーンの迫力あるパフォーマンスが見事なのは言うまでもないが、実は作曲シーンやレコーディングシーンといった派手な演出のない演奏シーンでこそ、タロン君の魅力が爆発する。
特に名曲「Your Song」誕生の瞬間は鳥肌モノのシークエンスであった。
エルトン・ジョン、愛と言う名の呪い
素晴らしい音楽を生み出す天才でありながら、絶望的に愛に飢えていたエルトン・ジョンの孤独を想うと、いままで聴き慣れていた多くのヒットソングたちへの印象もまた変わってくる。
ハッピーな曲は切なく、切ない曲はさらなる哀愁で心に伸し掛かってくるではないか。
『ロケットマン』の物語は、ひとりの天才の「愛」をめぐる生々しい半生を描いている。
自分を愛してくれる人を探し求め、ゆえに自分自身をも愛せずに過ごした日々。
きっとエルトン・ジョンは、そういった理不尽な仕打ちをした周囲(特に両親)に対する不満と恨みをいまだに持ち続けている。
製作総指揮として作品制作に参加し、自分を愛してくれなかった両親に遠回しに復讐しているのではないか? と思わずにはいられない演出が散りばめられていることからも、それは明らかだ。
親が我が子に無関心であるという状況など俺にはまったく理解できないが、エルトン・ジョンのその苦しみは痛いほど伝わってきて、鑑賞後にすぐに帰宅し我が子を抱きしめてやりたい衝動にかられたほどだ。
さらに、恋人兼マネージャーとの泥沼の恋愛事情やドラッグに逃避するスターゆえの孤独も濃厚に描かれている。
栄光と絶望、ショービズ界の裏側と混乱、劇中に展開する豪華絢爛な地獄絵図を見ていて、思わずクイーンの軌跡を描いたヒット作『ボヘミアン・ラプソディ』との類似点を多く見つけてしまったが、後から調べたらなんとまさにその『ボヘミアン・ラプソディ』の監督が手掛けた作品であった。
天才を見つめる視点、リアルな人生をファンタジックに描く演出、ライブシーンのカタルシス、そしてアーティストへの大いなるリスペクト。
哀しくも壮絶なエルトン・ジョンの人生が大迫力のエンターテインメントとして再現された、まさに実録音楽映画のお手本みたいな作品であった。
音楽映画の最高峰!
100点満点!
最先端テクノロジーのチャッキーがぜんぜん可愛くない 『チャイルド・プレイ』最新作!
子どもたちに人気の可愛らしい「グッドガイ人形」にサイコキラー “チャッキー” の魂が乗り移って、前代未聞のお人形さんによる連続殺人が勃発。
というポップかつファンタジーな設定が話題を呼んだ名作ホラー『チャイルド・プレイ』は、我が国で言うとプリキュアのフィギュアが人殺しをするといった状況でしょうか。
「空に輝くキラキラ星! キュアスター!」が、文字通りキラキラのおめめと満面のスマイルで子どもたちを血祭りに上げて「キラやば~!」とか口走る姿はいろんな意味で超絶怖いです。
というかチャッキーの500倍怖いじゃん(東映、この映画を製作しろ)
『チャイルド・プレイ』シリーズは、殺人人形チャッキーのキャラ完成度の高さゆえいくつもの続編が製作され、いつの間にかチャッキーはセクシーな人形と結婚したり、子どもが出来たり(人形の!)、パロディ化されさまざまな場所でネタにされたりと、十分すぎるほど消費されまくっておりました。
そんなチャッキーも誕生から実に30年。
もはやホラー史の中でもかなりの古典となり、キャラクターとしての知名度も抜群な人気殺人鬼のチャッキーが、今年新たなヴァージョンとしてアップデートされたのです。
IoT時代のおもちゃ殺人は人間社会への警告
チャッキーもAIになる時代です。しかもスマホと同期してカメラ機能や自宅家電の操作などもできたりするハイテク使用。
掃除や室温調整、テレビの予約録画などなど、おもちゃなのに人間生活をラクにするためにクラウド化されているところが現代社会的で哀愁を感じてしまいます。
つまり、チャッキー人形も忙しくて人殺しばかりに専念している場合じゃないのです。
『トイ・ストーリー』のおもちゃたちが口走る「いつまでも子どもたちに遊んでもらいたい!」などと言うのはもはや“甘え”だ!
捨てられたくなかったら、その人工知能を隠さずに、大いに駆使して人間様の役に立て!
おもちゃ箱でじっと子どもを眺めているだけでなく、高性能カメラや音声&動画記録機能なんかを身に付けて、いつ降りかかるかもしれない脅威から子どもを守れ! おもちゃ! コノヤロウ!
いや、おもちゃにいろいろ求めすぎですよね。
まったくもって世知辛い世の中です。泣けてきました。
つまり何が言いたいのかというと、リブート版『チャイルド・プレイ』は、なにかと強制労働を強いられる劣悪なおもちゃ環境への怒りが、チャッキーを残虐な凶行へと走らせるという社会的な話なのです。嘘ですが。
いや半分本当。そのへんは観てもらえばわかると思います。
とにかく、今回のチャッキーは学習機能のあるAI搭載なので、どんどんヤバイことを覚えていき、殺しのスタイルも狡猾で知略的。
ただ刃物を振り回したりするのではなく、自身の能力であるクラウドサービスをフル活用した罠でターゲットを追い詰めて殺すさまが見事で、さすがIoT時代のハイテクチャッキーといったところ。
人間にとってのテクノロジーの進化は、反対に人間の首を絞める諸刃の剣になり得るという社会的メッセージをもこめられた物語となっていたのでした。
チャッキーを「悪」にするのもまた人間
「人工知能が人間との会話で物事を覚えていく」というシステムゆえに、チャッキーが引き取られた家庭環境がその成長に大きく影響を受けるというところも今作のポイントです。
アンディの家は、シングルマザーで経済的にも裕福と言えず安アパート暮らし。さらに母親の恋人がクズ野郎ときています。
子どもにとっては地獄みたいな環境に連れてこられたチャッキー人形が、悪意を植え付けられるのは必然。
そう。今作のチャッキーは、前シリーズのように「殺人鬼の魂が乗り移った人形」ではなく、多少プログラムがおかしくなっているものの純粋なAI人形なのです。
もともとチャッキーは「バディ人形」という、持ち主と親友になることをプログラムされたおもちゃゆえに、開花していく残虐性を周囲の関わりが助長させているというのがとても教訓的で恐ろしいのです。
そういう意味で、この映画の被害者はアンディであり、またチャッキーでもあると言えます。
ただのサイコな殺人人形ではなく、現代の家庭事情や人々の孤独から生まれる歪んだ心こそが、チャッキーの殺人の原動力となってしまったというのが、怖くもあり、哀しくもあり、おかしくもあるのです。
まとめ
今回のチャッキーは怖いです。顔が。
以前までのチャッキーは、もともとの「グッドガイ人形」自体がカワイイ顔で、それをあえて歪ませて悪い事をさせることでさらにキュートさがアップしていました。
しかし新しいチャッキーである「バディ人形」は、顔の造形もリニューアル。
最初からとんでもなく憎たらしく可愛げのない顔になっております。
正直、こんな顔の人形だれが買うんだ? って思うほど可愛くないので、上映開始1秒で出てくるその顔を観て大いに笑っていただきたいです。
常識なんか知るかバカ! 自由に暴れろ! 家族を大切にしろ! 『ワイルド・スピード/スーパーコンボ』を観ろ!
『ワイルド・スピード』シリーズを観るといつも「映画ってこんなに自由でいいんだなあ」って思う。
常識とか、リアリズムとか、整合性とか、共感とか、細かい理屈とか、そんなものは映画に必要ないんだなと。
ドデカいスクリーンの中に、ド派手でド迫力でドスリル満点な映像さえ映っていればそれで良し。
他には何もいらない。というか、それ以外の要素なんか全部ムダでしかない。
たとえば恋愛、道徳、癒し、処女崇拝、平和へのメッセージ、環境破壊への警鐘、差別はやめましょうなどという問題提起、これらは映画においてまったくもってムダな要素である。
では、必要なモノだけで形成された、もっとも理想的でスマートな映画とは何か?
それはもちろん、ドウェイン・ジョンソンとジェイソン・ステイサム、つまり頭の中が脳みその代わりに筋肉と破壊衝動で埋め尽くされたハードコアバカの2人が世界を股にかけて大暴れする映画である。
これぞ映画の完成形&究極形態。
こんな映画を誰もが待っていた。
間違いない。
この映画を観たくない奴などこの世にいないと断言できるし、もし「俺は観たくない」なんて思っている人がいるなら深刻な心の病に侵されている可能性があるのでカウンセリングにでもかかるべきだ。
『ワイルド・スピード/スーパーコンボ』には、すべてが詰まっている。
殺人と破壊と美女と友情と家族とギャグとカーチェイスと細菌兵器と、盛りだくさんのバカ要素が奇跡の大結集。
まさに、この世のすべての“バカ”を集めた「バカの元気玉」(通称「元気バカ」)とも呼べる圧倒的低能ディープインパクトを映画館で体験しない手は無い。
日々の悩みや社会への不満、未来への不安、肉体疲労、精神障害、神経痛、肩こり、腰痛、ありとあらゆる症状が、この映画を観ることですべて解消されるのだ。
暑さの厳しい今年の夏だが、熱中症になんかなっている場合じゃない。
男なら冷房のガンガンきいた映画館でこの映画を観て、酸欠&過呼吸症候群になって救急車に運ばれるべきだ。
驚愕! 今世紀最強の2人による暴力的イチャイチャ
この映画の主役は人気作品『ワイルド・スピード』シリーズにおける脇役キャラの2人である。
ドウェイン・ジョンソン演じるルーク・ホブスは、ワイスピの主人公チームドミニクファミリーを一時期追っていた捜査官で、今では敵の凶悪な計画を阻止するために協力関係になっている。
ジェイソン・ステイサム演じるデッカード・ショウは、ワイスピ6作目『ユーロミッション』の適役オーウェン・ショウの兄で、ワイスピ7作目『スカイミッション』にて最強の敵として登場した人。
ワイスピ8作目『アイスブレイク』でもゲスト出演して、というかドミニクファミリー&ホブスと敵対しながらも軽く共闘しており、今回のスピンオフ製作の必然性を感じさせるほどのチームワークを見せている。
シリーズの中では、中心キャラのドミニクやブライアン以上に人気のキャラクターとなっているこの2人が、満を持してデコボココンビを組んでヤバすぎる悪と対峙する。
宿敵と組んで共通の敵を倒すというシチュエーションほどアツいものはない。
しかもアウトロー捜査官と大物犯罪者という、まったく正反対の強力な存在が手を組むことでその強さが何倍にもアップする感じ。
映画版DBでの孫悟空とベジータの共闘、『カリオストロの城』におけるルパンと銭形、頂上戦争で麦わらのルフィをサポートする元王下七武海サー・クロコダイル。
かつてお互いにとって厄介な相手だった者同士が嫌々組んでいるにもかかわらず、なぜか示し合わせたかのように息がぴったりでチームワーク抜群だったりする。
しかも立場は正反対なのに似たモノ同士で、「お前なんか信用してねえよ」みたいな顔をしながらも影ではお互いを信頼しまくっているというツンデレ感。
こうなると、2人が事あるごとにいちいち織り成す悪態やケンカも、すべてイチャイチャに見えてしまうから大変。
ムキムキのハゲおっさん同士のイチャイチャを見て興奮するおっさん。
これぞ実写版おっさんずラブ。
最近ドラマが話題になった『おっさんずラブ』は、ナヨナヨした粗チン男ばかりが登場し暴力シーンも殺人シーンも無くてまったくピンとこなかったが、ホブス&ショウのイチャイチャは、命がけすぎてノーマル趣味の俺でも思わず勃起してしまう官能ドラマであった。
根底に流れるワイスピスピリット
ドミニクファミリー不在の物語ゆえにスピンオフ作品という位置づけの本作だが、その根底にはしっかりとワイスピイズムが漂うのでシリーズのファンにはたまらないシーンの連続である。
もともとワイスピシリーズはキャラの描き方が非常に巧い。
というかバカと変態しか出てこない濃厚キャラの宝石箱とも言えるこのシリーズは、キャラの濃い奴が無条件でレギュラー化していくシステムなので、いまやファミリーにはバカと変態のるつぼと化している。
そんな中で一貫して描かれているのが家族愛だ。
バカで変態なドミニクファミリーのチームとしての結束力&家族然とした仲間意識の深さがシリーズの魅力なのだ。
今回の『スーパーコンボ』にも家族愛というワイスピリットがしっかりと描かれており、物語はショウの家族事情からはじまり、後半にはホブスの家族事情が描かれるという完璧な家族映画となっているところに注目だ。
仲間との友情、兄弟の絆、母親の愛情。
さんざんノーテンキな暴力と破壊を見せられているのに、ラストでほろりとしてしまうのがワイスピの凄いところ。
なんでも暴力で解決させるバカしか出てこないのに、なぜかみんな家族愛だけは底なしに深いのだ。
まとめ
『ワイルド・スピード』という邦題がそもそも超バカで低能だが、スピンオフとして付けられた『スーパーコンボ』というワードにも圧倒的な低能を感じる。
『ワイルド・スピード/スーパーコンボ』は、バカワードの組み合わせとしては完璧ではないだろうか。
あまりにもバカすぎて美しさすら漂っているので、もはや芸術である。
そんなアートの歴史的傑作、数十年後に孫に自慢するためにも、ぜひとも鑑賞するべきだ。
絶対にひとりで観て! 別次元の「異様さ」にたどり着いたリメイク版『サスペリア』
俺はいま、聴くだけでド派手に呪われそうな初代『サスペリア』(1977年)のテーマ曲を流しながらこの感想文を書いている。
音楽を担当したイタリアのバンド「ゴブリン」の代表曲のひとつであり、ホラー映画BGMの中でも『エクソシスト』のテーマ「チューブラー・ベルズ」に並ぶ超有名なサウンド。
その美しく儚げなメロディと民族楽器の音色との不気味な融合、時折挿入される魔女のささやき(みたいなダミ声)がとんでもなく恐ろしい。
ダリオ・アルジェント監督の名を一躍有名にしたホラーの古典『サスペリア』は、俺にとって怖い映画というよりも、なんつーか、その、とても狂っている変な映画というイメージだ。
音楽も、ビジュアルも、物語も、展開も、ことごとく常識ハズレで変態なので、思春期に観た俺にとってはけっこうなトラウマ。。。
というか、この作品を運悪く多感な時期に観た人間なんてのは、もう間違いなく俺同様にトラウマを植え付けられているはず。
今回リメイク版を監督したルカ・グァダニーノさんもまさにその一人であった可能性が高い。
少年時代(13歳の頃だったそう)にこの映画を見た瞬間に、彼は「ぼくも大きくなったらサスペリアを撮りたい!」などと言いながら、この作品の再映画化を夢見るという完全にヤバイ青春を送っていたんだって。
『サスペリア』は「とんでもなく変な映画」ゆえに公開時のインパクトも大きく、今なおカルト的な人気を得ている。
ファンも当然観る目が肥えているので、ちょっとやそっとのリメイクじゃあ納得しないのは明らかだし、そもそもすでにあの時点で完成されていたダリオ・アルジェント監督の変な美的センスやら変なショック描写やら変なミステリー展開やらを模倣しようにも、そんなものは到底無理である。
『ゾンビ』(リメイク『ドーン・オブ・ザ・デッド』)や『悪魔のいけにえ』(リメイク『テキサス・チェーンソー』)のように容易にリメイクできるような作品ではないのだ。
そんな、どう考えてもリメイクが難しい作品にあえて手を出したルカ・グァダニーノなる男はタダモノではない。
俺なんかも「普通の映画になっちゃってたら残念だなあ」なんて思いながら鑑賞。
そう、結局いちばんの不安は「普通のホラーになってしまっていること」なのだ。
「圧倒的な変さ」こそが『サスペリア』の大きな魅力ゆえに、リメイク版でそこを修正されて正統派ホラー化されてしまうとファンとしてはマジで困ってしまう。
で、結論なんだけど、リメイク版の『サスペリア』は、なんと驚くべきことにダリオ・アルジェント監督とはまた別ベクトルでとんでもなく変な映画だった。
いや、もはや「変」というレベルではなく、オリジナルの100倍「異様」で狂気に満ちた壮絶ホラーになっていたのだ。
驚きの再構築で狂気度UP! 地獄度UP!
リメイクではなく「再構築」と言ったほうがしっくりくるくらい、本来の『サスペリア』のベースの部分だけを残して、あとはまったく別の世界観となっている本作。
印象としては、オリジナルに比べて美しさ100倍、狂気100倍、残酷さ100倍、おぞましさ100倍、つまり、すべてが地獄方向にパワーアップしているという驚きの出来で当然満足度も100倍なのだ。
オリジナル同様に、主人公がダンサーになるという夢と希望を胸に有名舞踏団の門を叩くところから始まるが、そこからの展開がエグさと生々しさに満ちていて、とにかく不気味。
美女だらけのダンサーたち、エロチックなダンスレッスン、得体のしれない邪悪な存在の鼓動、講師たちの謎の行動。
主人公以外の登場人物たちにもクローズアップしながら、さまざまな視点から『サスペリア』の物語を展開させ、ときにその描写はキャラクターの精神的なイメージにまで及ぶ。
一歩間違えると実験的なアート作品になってしまいそうなギリギリの不条理さ&幻想的な演出が、まるでデヴィッド・リンチの作品のようでもあるが、しかし根底にはオリジナル版へのリスペクトがしっかりと見て取れるから凄い。
姿カタチがまるで違うのに、それは間違いなく『サスペリア』でしかないのだ。
ルカ・グァダニーノ監督、よくもこんなとんでもないリメイクを創り上げたものだ。
『サスペリア』と言う作品を、どれだけ愛し、分析し、研究すればこんな完璧な再構築が可能なのか?
なんと上映時間は152分という長尺でありながら、この濃密さ、絵的な美しさ、物語の面白さはタダゴトではない。
完璧すぎるキャストと音楽がとにかく凄い
成人映画『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』で惜しげもなくセレブセックスを見せつけていたあの少女なので、今回も愛しさとエロさと心強さ満点の見事なパフォーマンスを魅せる。
さらに、舞踏団のカリスマ指導者マダム・ブラン役は、俺の中で「ガチの魔女なんじゃないか?」という疑いが年々強くなっているティルダ・スウィントンである。
もうこの時点で美的センスが爆発しているわけだが、そんな危険なキャラクターたちの物語を盛り上げる音楽がこれまた凄い。
オリジナル版でも重要な役割を担っていたゴブリンのプログレッシブ・ロックに負けず劣らずのインパクトで鳴り響くのは、あの『レディオヘッド』のトム・ヨークによる楽曲である。
ポップでありながら破壊的な迫力と官能的な魅力を併せ持った美しきロックの調べが、新たな時代の『サスペリア』に華を添える。
この完璧な布陣でこそ実現した、もっとも高級&高尚なリメイク作品。
「決してひとりでは見ないでください」?
いや、『サスペリア』の濃密すぎる映像体験は、絶対にひとりで観て、その心に誰とも共有できない禁断のトラウマを植え付けられて欲しいな。
ホラー映画の最先端にして最高峰、『来る』が来る!
「く~る、きっとくる~」
なんていう曲が主題歌のジャパニーズホラーの大傑作『リング』(1998年)で、すでにこの作品の出現を予言していたのかもしれない。
古くから言い伝えられる田舎の邪悪な物の怪「ぼぎわん」に取り憑かれてしまった家族が、その呪いをなんとか祓うために奔走するという、よくある設定のホラーであった。
序盤は。
しかし、この物語は化け物に取り憑かれて悲惨な目に合うだけでは終わらない。
なぜなら「それ」は、関わった人間の負のパワー、嫉妬や不満や不安や憎悪などの感情をエネルギーに、その邪悪パワーを増幅&増殖させるという超絶厄介なおばけなのであった。
つまり巻き起こる怪異はじょじょにエスカレートしていき、とてもじゃないが軽薄を絵にかいたようなチャラ男の主人公、妻夫木聡くんには太刀打ちできない。
そんな「この呪い、誰かなんとかして」といった、ワラをも掴むような状況で現れるのが小松菜奈のキャバ嬢霊能者。
2018年、俺がもっとも感動した青春ムービー『恋は雨上がりのように』では中年オヤジに恋する女子高生を清楚かつ儚げに演じた小松さんが、今回は金髪キャバ嬢というそのキャラクターの振り幅に悶絶せずにはいられないわけだが、よく考えたら小松菜奈の長編デビューは同じ中島哲也監督の『渇き。』なのであった。
あれも強烈な女子高生の役だったので、やはり小松さんにはそういった異質なオーラを持つ存在みたいな役が合っているのかもしれない。
とにかく、取り憑かれた者の周囲で起こる怪異と呪いをめぐるミステリー、そしてクライマックスの化け物VS霊能者のバトルまでを怒涛のハイテンション展開で描く中島哲也監督のパワフルな演出が凄い。
呪われまくり、人死にまくり、血しぶき飛びまくり、毛虫うごめきまくりの衝撃ショック映像が、ポップなBGMと軽快なカット割りでドカドカ飛び出し、わーわー言っている間に上映時間2時間が過ぎてしまうという圧巻のホラーエンタテインメントになっており、間違いなくこの作品はジャパニーズホラーの最高峰であり最先端でもあるのだ。
リアリズムと虚構の絶妙なバランス
物語はオバケに狙われた夫婦(妻夫木&黒木華)、その親友(青木崇高)、霊能者(小松)、オカルトライター(岡田准一)を中心に展開。
前半は、絶望的に世間体だけを気にするリア充夫の妻夫木と地味で無口でストレスを溜めがちな黒木との、壊れかけた夫婦生活が描かれるわけだが、このチャラ夫の妻夫木がもうダメすぎて笑ってしまう。
仕事先やSNS上で「イケてる旦那様」を演出して、いわゆる「映え」重視の投稿してみたり、イクメンアピールしてみたりで周囲から尊敬されているんだけど、いざ家庭の中では子どもほったらかし、家事まったく手伝わない、身重の奥さんもいたわらないでもう最低。
世の夫連中が「どこの俺だよ!」と口を揃えて言ってしまいそうなリアルダメ男だ。
さらに、そんなダメ亭主に愛想を尽かして、溜まったストレスを愛娘に向けてしまう悲惨な奥さん。
見ているのがつらすぎるほどの崩壊直前の家庭に、少しづつ「それ」が侵食していくといった流れが、まさに今そこにある“現代社会の闇”といったリアリズムで描かれているのだ。
妻夫木の空っぽ感ある軽薄チャラ演技が本当に素晴らしい。
こいつが「それ」の呪いに悩まされる姿が、怖くもあり、同時にもうこのダメ亭主は死んで良し!とか思わずにはいられないほど自業自得感に満ちていて困る。
また、奥さん役の黒木華は、疲れた主婦のダークな雰囲気を出しつつも、だらしないエロさも同時に醸し出していて、そのへんも生々しくてリアルだったりする。
こうした “終わりかけの夫婦関係” のリアル描写の中に、極めて映画的でド派手な怪現象がブチ込まれるわけで、そのバランス感というか、もっと言っちゃえば強引さ、大胆さがこの作品に漂うスピード感の要因なのであろう。
霊能者のキャバ嬢とオカルトライターの凸凹コンビが現れてからの展開は、とたんにファンタジー味が増してテンション共々盛り上がってくるわけだが、やはりそれは前半の社会的闇案件のリアルな描写によるところが大きいんじゃないかなと思った次第。
そしてこの物語、中盤以降でまたも様子が変わってくるから面白い。
最強霊媒師の松たか子が登場し、事態はますます深刻かつ危険かつバカバカしさを帯びてくるのだ。
今世紀最大級の除霊シーンが凄い
最初でも触れたが、この作品における怪異は『リング』や『呪怨』などとはレベルが違う。
敵は、人々のストレスを喰らいながらパワーアップし、邪魔する者はことごとく物理的に惨殺してしまう化け物(というかもはや怪獣)なのである。
よって、追い払うためにはそれ相応のパワーを持つ存在が必要。
ってことで登場するのが、人間界最強の松たか子さん。
つまりクライマックスは、強力になった「それ」を『コクソン』の500倍の規模でエクソシズムするという圧巻の霊媒スペクタクルが展開するのだ。
このへんになると、もう前半のリアルさとは真逆のスケールでブッ飛んだシークエンスが連発。
松たか子のマンガみたいなキャラクターも相まって、その物語は異次元の面白さへと変貌していく。
いやー、ほんとホラー映画なのにアクション映画を観ているみたいに目まぐるしくて疾走感が凄い。
中島哲也監督の作品はもともと、どんなジャンルであろうとハイテンションな展開と大胆で濃厚な画作りが特徴だが、ホラー映画ですらここまで豪快にエンタメしてくれるとは思わなかった。
しかも、ちゃんと怖いから凄い。夜中に思い出してブルっとくるほどこの作品は怖いのだ。
まとめ
ホラー映画の常識をまたひとつブチ破ってしまった本作。
もちろん原作そのものが非常に素晴らしいホラー小説なのもあるが、やはりここまで盛大なエンタメとして映画化してもその恐怖と忌まわしさをキープさせている中島哲也監督の作品作りの的確さには尊敬しかない。
先読み不可能のザッツ・化け物エンターテインメントホラー『来る』は、間違いなくジャパニーズホラーの歴史を変える傑作であり、今年もっとも観るべき映画の一本である。
ホラー好きならば、なにがなんでも観ろ。