ローデッド式デヴォンクラッチ

映画ファン最後の良心デヴォン山岡が映画を楽しみまくって感想を書きます。

シリーズ未見だってのに『HiGH&LOW THE WORST』が悶絶するほど面白かった件

 

昔はヤンキー物のジャンルって大好きだったけど、オッサンになったら別に興味がなくなっちゃったのは、もうヤンキーに感情移入できないどころか、自分がオヤジ狩りに合う危険性のほうが現実的になったからであろうか。

そんな俺が、このたび話題のヤンキーバトル映画『HiGH&LOW THE WORST』との奇跡的な邂逅を果たしたのである。

ついに、ウワサだけは耳にしてきたが、ずっと避けて通って来たハイローシリーズと正面切って対峙するときが来た。

 

つまり俺とハイローとのタイマン勝負である。

 

ちなみに、俺が今までハイロ―とのタイマンを避けて来たのは、この映画が単なるEXILEグループのプロモーション映画だと思い込んでいたからに他ならない。

ススキノのニューハーフたちが「抱かれたい男」のビジュアルとして挙げる率ナンバーワンのEXILE的風貌の連中が、カッコつけながら申し訳程度のヤンキードラマを繰り広げる映画なんでしょ、どうせ。

 

なんてことを勝手なイメージで思ってしまって本当に申し訳ございませんでした!

 

ハイロー、ムチャクチャ面白かったです!

 

ここ最近の邦画アクションの中では最高峰クオリティのハイテンション・バトルムービーで、さすがの俺も1ラウンド秒殺KO!

 

すげえ。マジですげえよこの映画。

 

圧巻のケンカ大乱闘シーンは『プライベート・ライアン』におけるノルマンディ上陸作戦もビックリの超絶臨場感。

100人くらいが一斉にバトルしていて、それを縦横無尽なカメラがぐりぐり動きながらナメ回すんだけど、もう全員が全力投球でケンカをしている。

スクリーンの端っこにいるヤンキーも死にもの狂いで敵を痛めつけているし、ドローンによる上空からのショットでは、ずっと後ろの方までボロボロになってケンカしているヤンキーたちの姿が確認できて、もう絵に描いたカオスになっている。

すべてのケンカに演出指導が入っているのだろうか? それともアドリブでマジバトルしてるのか? よくわからんがとにかく凄いショッキングヴィジュアルだ。

邦画のアクションでこんな迫力満点なバトルをはじめて観た。

 

これがハイロー・・・、いや、これが、若さか・・・。

 

 

ハイロー、ストーリー完璧すぎ

 

この映画は、主人公のケンカ大好き少年、花岡楓士雄が地元の凶悪高校「鬼邪高」に転校してくるところから物語が始まる。

ヤンキーものってのは、いつの時代も「転校生」が風を起こすところから始まるのだ。

この「鬼邪高」なる高校、まったくもって授業を行っている雰囲気が無く、先生の存在すら皆無である。

落書きだらけでゴミの散乱した廃墟のような校舎に、不良たちがたむろして雑談したりケンカしたりヤクを売ったりしているだけ。

みんな何をしに学校に通っているのか? そもそも登校しているのだろうか? もしかしたらこいつら、学校に住んでいるのかな。

不良版『がっこうぐらし!』みたいな世界観なのかもしれない。

そもそも高校名が「鬼邪高」だから、創立の時点でまともに教育する気が無いのは明らか。

そんな異世界然とした「鬼邪高」と敵対する「鳳仙学園」は、なんと髙橋ヒロシの不良マンガ『クローズ』や『WORST』にて描かれた世界線の不良高校である。

そう、つまりこの映画は、ハイロー世界と髙橋ヒロシ世界とのクロスオーバーなのだ。

さらに、髙橋ヒロシ自身が映画の脚本を手掛けており、不良たちのサスペンスフルな抗争劇はもちろん、友情ドラマとしても見応えがある。

2つの不良高校同士のゴタゴタの裏で暗躍する組織、主人公の幼馴染たちとの絆、そして仲間たちとの友情パワーがピンチを打破するのカタルシス

ハイロ―のぶっとんだ世界観と融合しても何の遜色も無く、むしろ違和感も感じないほどに馴染んでいるストーリー展開は本当に見事だった。

 

 

ハイロ―、キャラ完璧すぎ

 

当然のように、ハイローシリーズそのものが初見なので、もう世界観とかキャラクターとかはまったく知らずに観たわけだが、なんと開始早々にすべてが理解できてしまうのが素晴らしい。

まるで水がスポンジに染み込むように、舞台となる「鬼邪高」(ホントひどい学校名)の数十人を超えるヤンキーたちのキャラと序列と派閥が俺のアタマに怒涛のごとく入り込んでくるという凄いシステム。

それは、オープニングの “これまでのあらすじ” 的ナレーションに加え、ヤンキー物にお約束の情報通キャラ「ジャム男」くんによる不自然なまでの状況説明セリフの賜物である。

はじめての人も全然ウエルカムな親切設計。

まるで『死霊のはらわた3/キャプテンスーパーマーケット』のオープニングのようだと言えばわかりやすいだろうか(誰もわかんねー)

とにかく、これだけ大勢のヤンキーがわらわらと集まっているのに、しっかりと見分けられるように髪型や服装、言動などでそれぞれのキャラを立たせているのが本当に凄い。

 

主人公の花岡楓士雄は、爽やかで明るく無邪気ないい奴系ヤンキーで、まさに髙橋ヒロシ漫画における典型的な強キャラの設定である。

演じるのは「THE RAMPAGE from EXILE TRIBE」の川村壱馬くん。

このひと、めちゃくちゃ演技が上手くてびっくりした。

 

そんな彼が鬼邪高全日制の不良たちを束ねようと奮闘するわけだが、ライバルキャラの真面目風メガネ男子の轟洋介(演じるのは俳優の前田公輝くん)が超クールでカッコ良くて、俺もう大好き

さらに、この学校には全日制と定時制があり、定時制(つまり年齢的に社会人)に番長がいる。

不動の最強番長、村山良樹(演じるのは山田祐貴)がこれまた飄々としていて、かつ男気もある魅力的なキャラクターなのだ。

 

 

で、髙橋ヒロシ漫画は、強い奴同士がニュータイプみたいにわかり合って友情を育むのがセオリーなので、例によってこの鬼邪高のトップ不良連中はほとんど戦わずして絆を深めていくことになる。

そんな鬼邪高ヤンキーたちと敵対するのが、隣町(かどうかは知らんが)の不良高校「鳳仙学園」の不良たち、通称 “殺し屋軍団” である(ストレートすぎる通り名)

この鳳仙学園の不良たちは、全員スキンヘッドで幹部クラスだけは髪の毛伸ばしてOKという野球部みたいなシステム。

そこの番長でザ・レイド』かってくらい超強い上田佐智雄を演じるのが、なんと俳優の志尊淳くんなのだ。

『半分、青い』のボクテ役や、現在放映中のテレビドラマ『Heaven?』でのナヨナヨとした可愛い系男子の姿が印象的な志尊くんが、ナイフ持ったチンピラを素手でぶちのめすという衝撃シーンが見られるのはハイローだけ!

とにかくこの4人が惚れ惚れするくらいカッコ良く、アクションのセンスも抜群、さらに演技が超達者で、初めて観た俺なんかは感動しきりであった。

 

過去作も観ます

こうして、未知の世界だったハイローシリーズに踏み込んで、あっけなく心を撃ち抜かれてしまった俺。

とにかく敵も味方も全員好きになってしまうくらいキャラクターの魅力が素晴らしいので、シリーズ未見でもなんなくハマれてしまうのだ。

こうなってくると過去作も断然観たい。

今回は『WORST』とのコラボだったこともあり、髙橋ヒロシ漫画に馴染みのある俺にはとても入り込みやすかったのもあるので、これを機に、真のハイローの世界に入ろー!(ダジャレ)

 

すべての思春期に捧ぐ『惡の華』 クソムシ共よ、これが青春だ!

f:id:mogmog-devon:20190823150757j:plain

 

有名なマンガ原作だということをまったく知らずに鑑賞したが、監督が監督なのでまあ「お察し」というか、ただの青春映画ではないことは予想していた。

しかしながら、煽り文句に“超〈変態〉狂騒劇”などと書かれると俺としては不安しか感じない。

「変態」を売りにしている時点で、それはファッション的かつ商品的な意味合いをはらんでしまうわけで、世間が求める「変態」とホンモノの「変態」は明らかに違うわけじゃん。

一般映画が売りにする「変態」なんてのは圧倒的に前者であり、それはみんなが楽しめる理想の「変態」像に他ならないのではないか?

「変態」は決してポジティブなものではなく、背徳的かつ非道徳的、罪悪感とマイノリティの疎外感などに満ちたネガティブな概念であるべきなのだ。

で、この映画、好きなクラスメイトの女子の体操着のニオイを嗅ぐ主人公「春日くん」を演じるのは伊藤健太郎である。

果たして、彼が女子のブルマをくんかくんかしていたとして、そこに“変態的なおぞましさ”が生まれるだろうか?

 

否である。

 

男から見ても可愛らしい顔をした伊藤健太郎くんがいくらブルマを嗅ごうが、ブルマを履こうが、ブルマを頭に被ろうが、おそらくそこには“爽やかさ”しか漂わない。

そんな「日本一爽やかにブルマを嗅ぐ男」健太郎くんを罵倒し支配する存在、クラス内で生徒にも先生にも嫌われ孤立した異端女子「仲村さん」の役が、これまた日本人離れした美しさを持つ玉城ティナ嬢だ。

 

画的に美しすぎるこの2人の絡みの、いったいどこに変態的要素を見出せばいいんだ! イイカゲンにしろ!

 

などと、1ミリでもこんな面倒なことを思った俺みたいな人間にこそ観てもらいたいのがこの映画である。

 

惡の華』は、決して「変態」を描く映画などではなく、もちろん「一風変わった若者の色恋沙汰」を描く映画でもない。

この作品は「青春」の残酷さ、生きづらさ、ドス黒さ、危うさ、絶望感や閉鎖感を、とんでもない破天荒な方向性で表現した圧巻の青春地獄絵巻なのである。

主人公が伊藤健太郎玉城ティナという美男美女であることは、この作品における唯一の救い、作り手による鑑賞者への慈悲でしかない。

これがもしブスな男女で描かれたら、誰一人として鑑賞に耐えられないし、あまりの地獄に上映中ショック死、あるいは自殺してしまう人も続出するであろう。

 

 

 

Mすぎてエモすぎる井口ワールド

f:id:mogmog-devon:20190823150118j:plain

 

惡の華』は、クラスのアイドル「佐伯さん」(秋田汐梨)に恋する春日くんが、放課後に誰もいない教室で彼女の体操着を思わず盗んでしまい、その様子を仲村さんに目撃されて弱みを握られてしまうことから始まる。

仲村さんに「バラされたくないなら契約しよう」と持ち掛けられて無茶な要求(彼らにとっての変態行為)に応える春日くんが、じょじょにM性を開花させていくシーンは本当に素晴らしい。

日本映画界の国宝級マゾ男、井口昇監督の最新作に相応しい、というか水を得た魚のような堂々たるM男覚醒演出は監督の面目躍如といったところである。

井口監督と言えば、デビュー作の短編映画『わびしゃび』が、学生時代の監督自身が後輩の女の子に告白するまでの葛藤を8ミリで記録した壮絶なドキュメンタリーだった。

今思い起こすと、『惡の華』の春日くんと『わびしゃび』において恋に悩む井口監督との姿が重なる部分があり、またそれが学生時代の俺自身の悶々とした日々にも重なったりして、要するに圧倒的にエモいのだ。

井口監督が、このマンガを読んで「俺はこれを映画化するために映画監督になったのではないか」などと神の啓示を受けた理由がよくわかる。

『わびしゃび』で描かれた孤独な片思い同様に、『惡の華』もある意味その歪みゆえに成就しない片思いの物語である。

春日くん、いや『惡の華』の悩める主要キャラ3人全員が“あの頃の井口監督”そのものであり、きっと井口監督は3人のことを誰よりも理解できたのだろう(ヘタすりゃ作者よりも)

 

 

 変態は自分の中にある

f:id:mogmog-devon:20190823150406j:plain



まるで自分の青春時代を見ているかのようにリアルな青春地獄。

もちろん俺は、実際に女子のブルマを盗んだりしたわけではないが(本当にしてない。お願いだから信じて)、憧れの女子の体操着姿を見て悶々とする主人公の気持ちなんか痛いほどわかるし、思春期の絶望的な気持ちを本や映画に逃避することでやり過ごしたり、「俺は他の人とは違う」と信じることで孤独の拠り所としたりと、劇中のあらゆるシークエンスが心当たりありまくりで困る。

とにかく大人たちやその社会がものすごく汚らわしい世界に見えて、さらにそういった世界へと何の疑問もなく足を踏み入れようとする同世代たちを蔑んだ目で見てしまう感じ、まさに「青春」だよね。

 

他の人と違う=「変態」でありたい。

自身のアイデンティティの欠落を「変態」という逃げ道で補完しようとする主人公は、いっそ「変態」であれば苦しまずにいられると思い、その異世界の扉を開けようと四苦八苦するわけだが、結局のところアイデンティティってのは他者との交流において確立するものだ。

春日くんも仲村さんも、孤独ゆえに自己像を認識できずにいたわけで、そんな歪んだ2人が関わりを持つことで、事態はより一層に歪みまくり、さらに佐伯さんをも巻き込んで混沌へと突き進む。

このへんのモヤモヤ感というか、もっとシンプルに生きればいいのにそうはいかない複雑な心境が見事に表現されていて、心当たりありまくりの俺にとっては恥ずかしくてたまらないのだ。

もうすっかりと忘れていた中学生時代の黒歴史を紐解かれたみたいに、羞恥心を大いに刺激される物語である。

「変態は自分の心の中にある」

劇中こんなセリフが飛び出す(たぶん)

「変態」は「愛」と同じでカタチなど無い。

見た目や行動などの表面的なモノではなく、「変態」は一種の概念として心のずっと奥に隠されているべきもので、他人にこれ見よがしにアピールするものではないのだ。

 

 

とにかく女の子がギネス級にカワイイ

f:id:mogmog-devon:20190823150528j:plain



心が痛くなるほど切なくて、気が狂わんばかりにエモいこの作品。

原作における世間の評判には「胸糞」というワードも上がっているが、映画版に関してその感覚は皆無である。

 

なぜなら出演者がとことん美しいからだ。

 

伊藤健太郎玉城ティナという透明感を絵に描いたような存在に加え、佐伯さん役の秋田汐梨のアイドル然としたキュートさには春日くんでなくとも心が射ち抜かれてしまう。

しかもブルマ姿がマジで今世紀最高にエロいので、鑑賞後に思わずブルセラショップに立ち寄ってしまいそうになったほどだ。

井口監督の目線ともいうべきカメラアングルのエロさは異常で、映画じゃなきゃ完全に犯罪!(当たり前)

さらに高校時代の春日くんと恋をする常盤さん役の飯豊まりえがまた凄い。というか存在がエロい。経験済み感がたまらない。

そもそも「飯豊まりえ」という名前の字面がエロい、「豊」という漢字&「ま」というひらがな表記は卑猥すぎて反則!(落ち着け)

 

井口監督の映画を観るといつも思うが、女の子の撮り方が異常にウマい。

清純さの中にしっかりとエロさを醸し出す魅せ方に、観ているこっちが罪悪感を抱いてしまうほどである。

つまりこの映画、目線が完全に思春期のソレ。

誰もが青春時代にタイムスリップして地獄ライドできる、究極の青春映画なのであった。ほげ。

 

 

 

惡の華
9.27全国青春ロードショー!

 

 

 

 

 

自分が襲ってくる! ドッペルゲンガースリラー『Us/アス』の予測不可能展開に悶絶しろ!

f:id:mogmog-devon:20190816121046j:plain

 

「自分そっくりの容姿をしたもうひとりの邪悪な自分に襲われる」というシチュエーションはホラー映画によくある題材だが、この映画はなんと自分だけでなく、自分の家族そっくりの「わたしたち」に襲われるというブッ飛んだ展開がヤバイ。

邪悪な自分ひとりくらいならまだ気楽だが(逃げやすいという意味で)、家族一緒にともなるとちょっと大変。

 

邪悪な夫、邪悪な嫁、邪悪な娘、邪悪な息子、なにこれ地獄じゃん。

 

幸せに暮らしていた平凡な家族に、何の前触れもなく襲い掛かる「ニセモノの家族」の恐怖。

いや、実は「前触れ」は遠い昔にあった。

この映画の核となるのは、その「前触れ」の部分なのだ。

突如現れたニセモノはいったい何なのか? その目的は? 

 

スリリングで謎に満ちた理不尽かつ理解不能な恐怖を、時にユーモアを交えながら軽快に描くのは、傑作スリラーゲット・アウト(2017)でアカデミー脚本賞を受賞したジョーダン・ピール監督である。

不吉なことが起こりつつある違和感、降りかかる意味不明な災難、そして冗談としか思えないような驚きの真相解明と、大胆でありながらも冷静沈着な脚本&演出が特徴。

今回も『ゲット・アウト』同様に、一見してどんな映画なのかが見えにくい、最後までその全貌を予測できない作品となっている。

つまり、『Us/アス』におけるドッペル家族の襲来にはもちろん大きな“意味”がある。

その“意味”がわかるのは物語の超終盤であり、観客はラストのラストで、残暑などなかったかのように死ぬほど背筋を寒くするという寸法だ。

 

 

 ドッペルゲンガーの恐怖とは?

f:id:mogmog-devon:20190816121223j:plain

 

「この世の中には自分そっくりの存在が3人いる」といった話を子供時代に聞いたことがある。

当時は、自分のそっくりさんがどこかにいるというファンタジックな話に素直にワクワクしていたが、いま考えると絶対に会いたくないなと思える。

自分と瓜二つの顔を持つ他人と遭遇するなんて恐怖でしかない。

ドイツ語で「分身」を表すドッペルゲンガーという現象は、自分が「もう一人の自分」を目撃してしまうことで、それは自身の死の前兆を意味するとして恐れられている。

つまり、ドッペルゲンガーを見てしまった者は近日中に絶賛死亡確定というわけである。

ニセモノがホンモノを殺し、なり替わってホンモノとして生き続けるという説もあれば、単純に「自分」を見てしまったショックから精神に異常をきたして死を迎えるという説もあるそうだ。

ドッペルゲンガーは不吉な概念であり、モンスターや幽霊に匹敵するほど人間にとっての恐怖の対象なのだ。

 

ではなぜ「自分」がこれほど怖いのだろうか?

対峙する「もうひとりの自分」が、自分とは正反対の人間であることへの恐怖か、あるいは自分自身が社会生活で隠している“本性”の具現化であることへの恐怖か。

相手が「自分」だからこそ、思考や行動もまた「自分」と同じですべて読まれてしまうという恐怖もあるかもしれない。

とにかく、自分自身がいちばん理解しているはずの「自分」が、理解できない存在として目の前に現れる恐怖こそがドッペルゲンガーの恐ろしさなのだろう。

ジョーダン・ピール監督は、史上もっとも恐ろしい物語を創る上でそこに着目したのだ。

この着眼点、そしてドッペルゲンガーをきっかけに広がる、アメリカの社会における貧困や格差への問題提起とも言える壮大な展開に驚愕を隠せない。

敵は自分であり「わたしたち」、つまり社会なのだ。

 

 

 

まとめ

 

自分にそっくりの人間は存在する。

それは科学的にも立証されており、もともと人間の顔の特徴を決める遺伝子の数は限られているということなので当然と言えば当然の話だ。

しかし、ドッペルゲンガーは単なる「そっくりさん」ではない。

「自分そのもの」であるというところに救いがたい絶望と恐怖がある。

さらに『Us/アス』は決して怖いだけの映画ではない。

混乱の中に描かれる人間の強さや滑稽さ、テンポ良く進むスリル満点なサバイバル展開、ホラーエンターテイメントとしての完成度の高さに誰もが驚くだろう。

 

 

f:id:mogmog-devon:20190816121353j:plain

 

100点満点!

 

 

 

殺し屋冒険ファンタジー『ジョン・ウィック:パラベラム』はシリーズ最高のキチガイ指数を更新!

ワンちゃんを殺された最強の殺し屋のクレイジーな大冒険を描いたジョン・ウィックシリーズ3作目は、ストーリーがムチャクチャすぎて全く理解できないが、そんなものは関係ないほどに面白い出来事がたくさん起こるのでもうそれでいいんだと思う。

とにかく物語は大筋で「なんとなくこんな感じ」といった程度になっていて、あとはジョン・ウィックさんが街に異常にたくさんいる殺し屋たちに襲われるだけ。

もはやこの世界には殺し屋しかいないのだろうか? と思わんばかりにそこら中に殺し屋さんたちが営みをしていて、当然のように「寿司屋」とか「ルンペン」とか「警察官」とか、仮の仕事をしてはいるけど、ここまで競合が多いともう殺し屋としてやってくのが大変だから副業して他の仕事やってんのかもしれない。いや副業で「ルンペン」はねーだろさすがに。

 

たしかジョン・ウィックさんは、1作目で愛犬を殺されて愛車を盗まれて、結構ひどい目に合ったからしょうがなく復讐に乗り出したはずだったが、2作目ではもうどう考えても「自分から過酷な環境に身を置こうとしているとしか思えない」ような自虐的判断ばかりして、引退とか平穏とかいったいどの口が言ってんだよ状態でもう笑うしかない。

 

ジョン・ウィック、何がしたいんだ!

 

そんな単純かつ素朴な疑問を打ち砕くシリーズ3作目「パラベラム」、その意味はラテン語のことわざ【平和を望むなら闘いに備えよ】ということで、結局ジョン・ウィックお前はやっぱりなんだかんだで安らぎを求めていたんだね、だからこそ再び殺し合いに身を投じたのか。ふむ。納得(無理矢理に)

 

平和、平和、平和、、、などとつぶやきながらも次々と刺客を残虐にブチ殺すジョン・ウィック

「悲しいけどこれ戦争なのよね」

スレッガー中尉さながらの悟りをその髭面にたたえつつ、殺し屋業界を追放されてひとり敵だらけの街をさまようのであった。



シリーズ最大の死人数を更新!

 

ジョン・ウィック最新作は、本作一本で『13日の金曜日』シリーズ全作品におけるジェイソンの殺人数をブチ超えたのではないかと思うほどの殺戮大合戦となっている。

業界を追放されたジョン・ウィックにはとんでもない賞金がかけられ、一攫千金を狙う大勢の殺し屋に命を狙われることになるのだが、そんな奴らがことごとく返り討ちにされるので死体の山は必至。

しかも最強&不死身なジョン・ウィックは、どんな状況だろうが周囲に転がっているモノを利用して人を殺害できるので、もはや拳銃なんか使わずに行き当たりばったりで敵を殺すのだ。

つまり、殺傷能力が低めの方法で強引にトドメを刺されるので、そりゃあもう悲惨な死に方をする人が続出。

殺されるのは「悪い殺し屋さん」たちなので、まあ因果応報だし、それはそれでスカっとしてしまうから本当に困る。

さらに今回ジョン・ウィックは、犬や馬や美女(まさかのハル・ベリー)などの生き物をも巧みに使って戦うので、そのへんの殺戮チームワークなんかも見どころだ。

業界全体を敵に回したジョン・ウィックが、彼を支援する人たちも巻き込んで、行く先々で展開する楽しすぎる大虐殺(推定死者数5億人)を堪能できるぞ。

 

 

 

ストーリーが意味わからない

 

 

ジョン・ウィックの世界観はかなり独特である。

 

まず殺し屋、多すぎ。

犬、賢すぎ。

ホテル、一般人いなすぎ。

警察、仕事しなすぎ。

業務機材、アナログすぎ。

 

まさにファンタジーのような世界で、そこに課せられた現実離れしたルールに基づいた物語が展開する。

裏社会の支配者、殺し屋の掟、血の誓印。

劇中に突如出てくるこの世界の社会システムを、われわれ観客は初耳なので「なるほど、そんなものなのか」という気持ちで受け入れながら鑑賞するわけだが、当然すべて「なんとなく」しか理解できない。

よって、たまにジョン・ウィック、何やってんだろ」という気持ちがアタマをもたげてくるのである。

しかし、そういった疑問が心の奥底に引っ掛かりつつも、面白すぎるアクション&バイオレンスが深く考えることを拒絶する。

 

そもそもジョン・ウィックという人の行動そのものも意図がまったく見えてこない事が多い。

殺し屋を辞めたいのに、わざわざ刺客を送り込まれるようなことばかりして、毎度わざわざ窮地に陥ってみたりするジョン・ウィック

街中に同業者がたくさんいることを知りつつも、わざわざ賞金首になるようなことを選択するジョン・ウィック

わざわざ殺し屋たちのターゲットになったくせに、襲われると困り顔、もしくはうんざり顔で対応に追われるジョン・ウィック

ジョン・ウィックのピンチはすべて「わざわざやってる」と思わせるピンチばかりでまーったく理解できないのである。

 

“ピンチ依存症”

 

生きるか死ぬかの世界において、そんなアホな依存症があっていいのだろうか?

いいのである。

だってジョン・ウィックなんだもん。

つまりこの映画、現実離れしてブッ飛んだすべての展開が“ピンチ依存症”で説明できてしまうので驚き。

 


バカが喜ぶキャスティング

なんてったってキャストが凄い。

ライバル関係となる組織の凄腕殺し屋はなんとマーク・ダカスコス扮する日本人の忍び。

そんな実写版クライングフリーマンの部下として登場するのが、シラット使いのお馴染みすぎる2人組である。

 

もはやハリウッドのアクションクリエイターたちにとって『ザ・レイド』は聖典なのだろうか。

 

特にヤヤン・ルヒヤンはどんな映画でもまったく同じ役柄で現れるのでマジ恐ろしすぎる。

ほかにも、『マトリックス』の続編のウワサが囁かれる中でのモーフィアスとの共演(これまた似たような絵ズラ)があり、年を重ねるごとにセクシーに磨きがかかるハル・ベリー嬢も参戦しムチャクチャ殺しまくる。

 

そんなクセのある出演者たちに囲まれてご満悦の主演キアヌ・リーブス

映画好きにたまらないマニアックなキャスティングがこの作品の大きな魅力なのである。

 

まとめ

全世界を敵に回したジョン・ウィックの運命がいかに?

いやいや、みんな知っていると思うけど、全世界の殺し屋が全員勢ぞろいしてもジョン・ウィックには勝てない。

俺たちは、このシリーズでジョン・ウィックの神話を目撃する、歴史の証人なのだ。

当然4作目も5作目も作られるだろうから、寅さんのように毎年作ってご長寿シリーズになって欲しいジョン・ウィック

マトリックス』なんかいいから、ずっとコレやっててくれキアヌ。

今年ベスト確実の大傑作『ロケットマン』、音楽好きはもう死んでも観なきゃダメ!

f:id:mogmog-devon:20190814185527j:plain

 

音楽好きならば、所持しているCDをすべてブックオフに売っぱらってでも観なきゃいけない映画ロケットマンは、エルトン・ジョンのド壮絶な半生を描いた、愛と呪いの超絶ミュージカルである。

そう、とにかくこの作品は「呪い」に満ちている。

あの類まれなる「音楽の才能」を得る代償として、エルトン・ジョンは「愛にめぐまれない」呪いにかけられたのではないか? と思うほど、幼少時代から見事に呪われまくっているのである。

両親からの愛を受けたくてもそれが叶わない現状、それを打破するべくのめりこんだ音楽の世界で、ご存知のとおりに彼は大成功を納めるが、結局どう頑張ったところで両親には愛されない。

 

なんという哀しい物語だろうか(しかも実話)

なのにこの映画は、そんな発狂レベルに可哀想な物語を、ノーテンキなポップミュージックで歌い踊り飛ばすのだ。

ミュージカル映画と言えば、もともと派手でテンションの高い作風なのが常識だが、『ロケットマン』は通常の3倍の派手さ&テンションで襲ってくる。

 

なぜならエルトン・ジョンは衣装がバリ派手、愛に飢えているためか精神が常に躁状態

 

オープニングから、常人だったら羞恥プレイ過ぎて死にたくなってしまうほどの激ヤバ衣裳で堂々登場するエルトン役のタロン・エガートンに悶絶&ショックを受けるほど、アタマからシッポまでたっぷりとド派手が詰まっている。

とにかくタロン君がとんでもなく巧い。

イケメンなのに、どことなく醸し出すイモ感、神経質感、変態感、さらにカリスマを感じさせるオーラをも身にまとい、当初は吹き替えで済ませる予定だったというライブシーンも、すべて自身で歌い上げたというからオドロキ。

 

f:id:mogmog-devon:20190814190042j:plain

似てないが似てる

 

タロン君はエルトン・ジョンとして違和感のない超絶歌唱テクを披露している。

こういったミュージカル映画は、普段見慣れた俳優たちのまさかの歌唱力に驚くことが多々あるが、今回のタロン君はレベルが違う。

なんてったって、世界的スーパーアーティストの名を名乗ってのパフォーマンスだからである。

「結構巧いよね」程度の歌唱力では務まらない。

製作総指揮であるエルトン・ジョン本人が納得するだけの歌唱力&表現力を、しっかりと持ち合わせているのである。

 

ライブシーンの迫力あるパフォーマンスが見事なのは言うまでもないが、実は作曲シーンやレコーディングシーンといった派手な演出のない演奏シーンでこそ、タロン君の魅力が爆発する。

特に名曲「Your Song」誕生の瞬間は鳥肌モノのシークエンスであった。

 

 

 

エルトン・ジョン、愛と言う名の呪い

f:id:mogmog-devon:20190814185819j:plain

 

素晴らしい音楽を生み出す天才でありながら、絶望的に愛に飢えていたエルトン・ジョンの孤独を想うと、いままで聴き慣れていた多くのヒットソングたちへの印象もまた変わってくる。

ハッピーな曲は切なく、切ない曲はさらなる哀愁で心に伸し掛かってくるではないか。

 

ロケットマン』の物語は、ひとりの天才の「愛」をめぐる生々しい半生を描いている。

自分を愛してくれる人を探し求め、ゆえに自分自身をも愛せずに過ごした日々。

きっとエルトン・ジョンは、そういった理不尽な仕打ちをした周囲(特に両親)に対する不満と恨みをいまだに持ち続けている。

製作総指揮として作品制作に参加し、自分を愛してくれなかった両親に遠回しに復讐しているのではないか? と思わずにはいられない演出が散りばめられていることからも、それは明らかだ。

親が我が子に無関心であるという状況など俺にはまったく理解できないが、エルトン・ジョンのその苦しみは痛いほど伝わってきて、鑑賞後にすぐに帰宅し我が子を抱きしめてやりたい衝動にかられたほどだ。

さらに、恋人兼マネージャーとの泥沼の恋愛事情やドラッグに逃避するスターゆえの孤独も濃厚に描かれている。

栄光と絶望、ショービズ界の裏側と混乱、劇中に展開する豪華絢爛な地獄絵図を見ていて、思わずクイーンの軌跡を描いたヒット作ボヘミアン・ラプソディとの類似点を多く見つけてしまったが、後から調べたらなんとまさにその『ボヘミアン・ラプソディ』の監督が手掛けた作品であった。

天才を見つめる視点、リアルな人生をファンタジックに描く演出、ライブシーンのカタルシス、そしてアーティストへの大いなるリスペクト。

哀しくも壮絶なエルトン・ジョンの人生が大迫力のエンターテインメントとして再現された、まさに実録音楽映画のお手本みたいな作品であった。

 

 

f:id:mogmog-devon:20190814185925j:plain

 

音楽映画の最高峰!

 

100点満点!

 

 

最先端テクノロジーのチャッキーがぜんぜん可愛くない 『チャイルド・プレイ』最新作!

 

子どもたちに人気の可愛らしい「グッドガイ人形」にサイコキラー “チャッキー” の魂が乗り移って、前代未聞のお人形さんによる連続殺人が勃発。

というポップかつファンタジーな設定が話題を呼んだ名作ホラーチャイルド・プレイは、我が国で言うとプリキュアのフィギュアが人殺しをするといった状況でしょうか。

「空に輝くキラキラ星! キュアスター!」が、文字通りキラキラのおめめと満面のスマイルで子どもたちを血祭りに上げて「キラやば~!」とか口走る姿はいろんな意味で超絶怖いです。

 

というかチャッキーの500倍怖いじゃん東映、この映画を製作しろ)

 

チャイルド・プレイ』シリーズは、殺人人形チャッキーのキャラ完成度の高さゆえいくつもの続編が製作され、いつの間にかチャッキーはセクシーな人形と結婚したり、子どもが出来たり(人形の!)、パロディ化されさまざまな場所でネタにされたりと、十分すぎるほど消費されまくっておりました。

 

そんなチャッキーも誕生から実に30年。

もはやホラー史の中でもかなりの古典となり、キャラクターとしての知名度も抜群な人気殺人鬼のチャッキーが、今年新たなヴァージョンとしてアップデートされたのです。



IoT時代のおもちゃ殺人は人間社会への警告

チャッキーもAIになる時代です。しかもスマホと同期してカメラ機能や自宅家電の操作などもできたりするハイテク使用。

掃除や室温調整、テレビの予約録画などなど、おもちゃなのに人間生活をラクにするためにクラウド化されているところが現代社会的で哀愁を感じてしまいます。

つまり、チャッキー人形も忙しくて人殺しばかりに専念している場合じゃないのです。

 

トイ・ストーリー』のおもちゃたちが口走る「いつまでも子どもたちに遊んでもらいたい!」などと言うのはもはや“甘え”だ!

捨てられたくなかったら、その人工知能を隠さずに、大いに駆使して人間様の役に立て!

おもちゃ箱でじっと子どもを眺めているだけでなく、高性能カメラや音声&動画記録機能なんかを身に付けて、いつ降りかかるかもしれない脅威から子どもを守れ! おもちゃ! コノヤロウ!

 

いや、おもちゃにいろいろ求めすぎですよね。

まったくもって世知辛い世の中です。泣けてきました。

つまり何が言いたいのかというと、リブート版『チャイルド・プレイ』は、なにかと強制労働を強いられる劣悪なおもちゃ環境への怒りが、チャッキーを残虐な凶行へと走らせるという社会的な話なのです。嘘ですが。

いや半分本当。そのへんは観てもらえばわかると思います。

 

とにかく、今回のチャッキーは学習機能のあるAI搭載なので、どんどんヤバイことを覚えていき、殺しのスタイルも狡猾で知略的。

ただ刃物を振り回したりするのではなく、自身の能力であるクラウドサービスをフル活用した罠でターゲットを追い詰めて殺すさまが見事で、さすがIoT時代のハイテクチャッキーといったところ。

人間にとってのテクノロジーの進化は、反対に人間の首を絞める諸刃の剣になり得るという社会的メッセージをもこめられた物語となっていたのでした。

 

 

チャッキーを「悪」にするのもまた人間



人工知能が人間との会話で物事を覚えていく」というシステムゆえに、チャッキーが引き取られた家庭環境がその成長に大きく影響を受けるというところも今作のポイントです。

アンディの家は、シングルマザーで経済的にも裕福と言えず安アパート暮らし。さらに母親の恋人がクズ野郎ときています。

子どもにとっては地獄みたいな環境に連れてこられたチャッキー人形が、悪意を植え付けられるのは必然。

そう。今作のチャッキーは、前シリーズのように「殺人鬼の魂が乗り移った人形」ではなく、多少プログラムがおかしくなっているものの純粋なAI人形なのです。

もともとチャッキーは「バディ人形」という、持ち主と親友になることをプログラムされたおもちゃゆえに、開花していく残虐性を周囲の関わりが助長させているというのがとても教訓的で恐ろしいのです。

そういう意味で、この映画の被害者はアンディであり、またチャッキーでもあると言えます。

ただのサイコな殺人人形ではなく、現代の家庭事情や人々の孤独から生まれる歪んだ心こそが、チャッキーの殺人の原動力となってしまったというのが、怖くもあり、哀しくもあり、おかしくもあるのです。

 


まとめ

今回のチャッキーは怖いです。顔が。

以前までのチャッキーは、もともとの「グッドガイ人形」自体がカワイイ顔で、それをあえて歪ませて悪い事をさせることでさらにキュートさがアップしていました。

しかし新しいチャッキーである「バディ人形」は、顔の造形もリニューアル。

最初からとんでもなく憎たらしく可愛げのない顔になっております。

正直、こんな顔の人形だれが買うんだ? って思うほど可愛くないので、上映開始1秒で出てくるその顔を観て大いに笑っていただきたいです。

 

 

常識なんか知るかバカ! 自由に暴れろ! 家族を大切にしろ! 『ワイルド・スピード/スーパーコンボ』を観ろ!

ワイルド・スピード』シリーズを観るといつも「映画ってこんなに自由でいいんだなあ」って思う。

常識とか、リアリズムとか、整合性とか、共感とか、細かい理屈とか、そんなものは映画に必要ないんだなと。

ドデカいスクリーンの中に、ド派手ド迫力ドスリル満点な映像さえ映っていればそれで良し。

他には何もいらない。というか、それ以外の要素なんか全部ムダでしかない。

たとえば恋愛、道徳、癒し、処女崇拝、平和へのメッセージ、環境破壊への警鐘、差別はやめましょうなどという問題提起、これらは映画においてまったくもってムダな要素である。

 

では、必要なモノだけで形成された、もっとも理想的でスマートな映画とは何か?

それはもちろん、ドウェイン・ジョンソンジェイソン・ステイサム、つまり頭の中が脳みその代わりに筋肉と破壊衝動で埋め尽くされたハードコアバカの2人が世界を股にかけて大暴れする映画である。



これぞ映画の完成形&究極形態。



こんな映画を誰もが待っていた。

間違いない。

この映画を観たくない奴などこの世にいないと断言できるし、もし「俺は観たくない」なんて思っている人がいるなら深刻な心の病に侵されている可能性があるのでカウンセリングにでもかかるべきだ。

 

ワイルド・スピードスーパーコンボには、すべてが詰まっている。

殺人と破壊と美女と友情と家族とギャグとカーチェイスと細菌兵器と、盛りだくさんのバカ要素が奇跡の大結集。

まさに、この世のすべての“バカ”を集めた「バカの元気玉」(通称「元気バカ」)とも呼べる圧倒的低能ディープインパクトを映画館で体験しない手は無い。

日々の悩みや社会への不満、未来への不安、肉体疲労精神障害、神経痛、肩こり、腰痛、ありとあらゆる症状が、この映画を観ることですべて解消されるのだ。

 

暑さの厳しい今年の夏だが、熱中症になんかなっている場合じゃない。

男なら冷房のガンガンきいた映画館でこの映画を観て、酸欠&過呼吸症候群になって救急車に運ばれるべきだ。

 

 

驚愕! 今世紀最強の2人による暴力的イチャイチャ



この映画の主役は人気作品『ワイルド・スピード』シリーズにおける脇役キャラの2人である。

ドウェイン・ジョンソン演じるルーク・ホブスは、ワイスピの主人公チームドミニクファミリーを一時期追っていた捜査官で、今では敵の凶悪な計画を阻止するために協力関係になっている。

ジェイソン・ステイサム演じるデッカード・ショウは、ワイスピ6作目『ユーロミッション』の適役オーウェン・ショウの兄で、ワイスピ7作目『スカイミッション』にて最強の敵として登場した人。

ワイスピ8作目『アイスブレイク』でもゲスト出演して、というかドミニクファミリー&ホブスと敵対しながらも軽く共闘しており、今回のスピンオフ製作の必然性を感じさせるほどのチームワークを見せている。

 

シリーズの中では、中心キャラのドミニクやブライアン以上に人気のキャラクターとなっているこの2人が、満を持してデコボココンビを組んでヤバすぎる悪と対峙する。

宿敵と組んで共通の敵を倒すというシチュエーションほどアツいものはない。

しかもアウトロー捜査官と大物犯罪者という、まったく正反対の強力な存在が手を組むことでその強さが何倍にもアップする感じ。

映画版DBでの孫悟空ベジータの共闘、『カリオストロの城』におけるルパンと銭形、頂上戦争で麦わらのルフィをサポートする元王下七武海サー・クロコダイル。

かつてお互いにとって厄介な相手だった者同士が嫌々組んでいるにもかかわらず、なぜか示し合わせたかのように息がぴったりでチームワーク抜群だったりする。

しかも立場は正反対なのに似たモノ同士で、「お前なんか信用してねえよ」みたいな顔をしながらも影ではお互いを信頼しまくっているというツンデレ

こうなると、2人が事あるごとにいちいち織り成す悪態やケンカも、すべてイチャイチャに見えてしまうから大変。

ムキムキのハゲおっさん同士のイチャイチャを見て興奮するおっさん。

 

これぞ実写版おっさんずラブ

 

最近ドラマが話題になった『おっさんずラブ』は、ナヨナヨした粗チン男ばかりが登場し暴力シーンも殺人シーンも無くてまったくピンとこなかったが、ホブス&ショウのイチャイチャは、命がけすぎてノーマル趣味の俺でも思わず勃起してしまう官能ドラマであった。

 

 

 根底に流れるワイスピスピリット

ドミニクファミリー不在の物語ゆえにスピンオフ作品という位置づけの本作だが、その根底にはしっかりとワイスピイズムが漂うのでシリーズのファンにはたまらないシーンの連続である。

 

もともとワイスピシリーズはキャラの描き方が非常に巧い。

というかバカと変態しか出てこない濃厚キャラの宝石箱とも言えるこのシリーズは、キャラの濃い奴が無条件でレギュラー化していくシステムなので、いまやファミリーにはバカと変態のるつぼと化している。

そんな中で一貫して描かれているのが家族愛だ。

バカで変態なドミニクファミリーのチームとしての結束力&家族然とした仲間意識の深さがシリーズの魅力なのだ。

今回の『スーパーコンボ』にも家族愛というワイスピリットがしっかりと描かれており、物語はショウの家族事情からはじまり、後半にはホブスの家族事情が描かれるという完璧な家族映画となっているところに注目だ。

 

仲間との友情、兄弟の絆、母親の愛情。

 

さんざんノーテンキな暴力と破壊を見せられているのに、ラストでほろりとしてしまうのがワイスピの凄いところ。

なんでも暴力で解決させるバカしか出てこないのに、なぜかみんな家族愛だけは底なしに深いのだ。



まとめ

ワイルド・スピード』という邦題がそもそも超バカで低能だが、スピンオフとして付けられた『スーパーコンボ』というワードにも圧倒的な低能を感じる。

ワイルド・スピードスーパーコンボ』は、バカワードの組み合わせとしては完璧ではないだろうか。

あまりにもバカすぎて美しさすら漂っているので、もはや芸術である。

そんなアートの歴史的傑作、数十年後に孫に自慢するためにも、ぜひとも鑑賞するべきだ。