『さがす』は、人々が生き方と死に方を「さがす」悲哀に満ちたサスペンス、よって死にたい人必見!
世の中に「死にたい人」ってどれくらいいるんだろうか?
なんてことをつくづく考えてしまう作品だった。
いや、「死にたい」というより「生きていたくない」のほうが正しいニュアンスかも。
無気力、貧困、諦め、社会からの孤立。この世に絶望し、サバイバルすることに疲れ果てた者は、皆 “死んだ方がマシだ” って心理になるのかな。たぶん。
でも自殺する勇気というか、そんなパワーすら無いから、悩み悩んだ末にSNSなんかに「殺して欲しい」なんて書き込んでみたりする。
自分で自分を殺すよりも、誰かにやってもらったほうがラクなのか、自殺すら自分の責任で実行したくないのか。
そのへんあまり理解できないけど、まあそんな人もいるらしい。
死にたくても死ねない人って、この世でいちばん不幸な人なのかもしれない。
なにも死ななくてもいいのに・・・。
なんてことを俺なんかは思うわけだけど、というか大部分の人はそう思うだろうけど、だからと言って「生きていればいいことがあるよ」なんて無責任なことは口が裂けても言いたくない。
きっと、死にたがっているような奴に、この先いいことなんかひとつも起きないだろうし。
といった前置きを書いたのは、この映画『さがす』は、絶望した人々が「死に方」や「生き方」を「さがす」物語だったからだ。
めちゃくちゃ悲惨な話だった。絶望を抱えて生き続けることの悲惨さ。
息苦しくなるシーンも多いし、不快になるほど生々しいシーンもあって、さすがこの監督、ポン・ジュノ作品で助監督経験があるって売り文句もダテじゃないなと思う。
この作品、とことん悲惨な話ながら、演出に奇妙な “軽快さ” があって、所々で笑えてしまったりするので怖い。
そのへんも韓国映画のテイストを意識してるのかもしれないが、絶望と混沌が彩る壮絶な物語の中で “それでも足掻き続けることの滑稽さ” が表現されているのだ。
佐藤二朗、見直した。
俳優:佐藤二朗が嫌いな映画ファンは多いと思う。
別にご本人がどういう人なのかはもちろん知らないし、あまり出演作も観てないけど、あの冴えない顔でブツブツと早口で面白いのか面白くないのかよくわからないセリフをつぶやいて、内輪ウケみたいな渇いた笑いを誘う感じの演技。
アレが超苦手で、なんというか、ネタで笑わせるんじゃなくて、面白くないことを強引にやり続けるから、結局こっちがもう呆れて笑っちゃうみたいな迷惑感。
そもそも福田雄一作品なんかでしか佐藤二朗の演技を観た事がなかったから、そのイメージで嫌いなのもある。
福田雄一がめちゃくちゃ嫌いだから、連動して佐藤二朗も嫌いだし、ムロツヨシも嫌いだし、でも橋本環奈はカワイイから好きだけど。
しかしながら、この作品『さがす』における佐藤二朗は、その「こいつウゼーな」的な迷惑演技が見事に功を奏しているというか、劇中で起こるドラマや人間関係の歪さを表現するうえで大きく機能していた。
佐藤二朗の独特のウザ演技で、娘との関係や妻との関係、そして殺人犯との関係がわかりやすく提示され、物語の胸ウソ悪さが一層引き立つしくみになっている。
つまりこの作品においては、佐藤二朗はめちゃくちゃ名演技。
映画『さがす』のストーリーは、佐藤二朗演じる父親が、中学生の娘・楓(伊東蒼、すごい巧い)に「お父ちゃんな、指名手配中の連続殺人犯見たんや。捕まえたら300万もらえるで」と言い放ち、次の日の朝に忽然と消えるというショッキングなエピソードから始まる。
行方不明の父を、タイトル通り「さがす」楓。
これが物語のメインストーリーかと思えば、第二幕ではこの親子の過去に遡った父親視点の地獄のストーリーが展開する。
突然ひとりぼっちになった楓が父親をさがすパートは、悲惨ながらもボーイフレンドとのやりとりなど微笑ましい瞬間も多かったが、父親のパートになると陰惨すぎて直視できない。
さらに、その後には、連続殺人犯(清水尋也)の激ヤバエピソードも始まるからもう “至れり尽くせり” とはまさにこのこと。
見たくないモノを全部見せてくれるサービス精神が素晴らしかった。
伊東蒼、よかった。
この作品における最大の収穫は、なんと言っても父親をさがす少女:楓を演じた伊東蒼である。
現時点で16歳と、役柄ともピッタリな年齢なんだけど、演技力はバケモノクラスでベテランかと思った。
あのクソウザ演技の佐藤二朗や顔つきが真正サイコパスみたいな清水尋也を軽く凌駕する圧倒的存在感はナニゴトだろうか。
『さがす』の悲惨さが、エンターテインメントに昇華した最大のポイントのひとつとして、彼女のキュートでパワフルな演技、空気感が一役買ったことは間違いないので、今後マジでその動向を追っていくべき人物である。
彼女に会えてほんとうに良かった。