自分が襲ってくる! ドッペルゲンガースリラー『Us/アス』の予測不可能展開に悶絶しろ!
「自分そっくりの容姿をしたもうひとりの邪悪な自分に襲われる」というシチュエーションはホラー映画によくある題材だが、この映画はなんと自分だけでなく、自分の家族そっくりの「わたしたち」に襲われるというブッ飛んだ展開がヤバイ。
邪悪な自分ひとりくらいならまだ気楽だが(逃げやすいという意味で)、家族一緒にともなるとちょっと大変。
邪悪な夫、邪悪な嫁、邪悪な娘、邪悪な息子、なにこれ地獄じゃん。
幸せに暮らしていた平凡な家族に、何の前触れもなく襲い掛かる「ニセモノの家族」の恐怖。
いや、実は「前触れ」は遠い昔にあった。
この映画の核となるのは、その「前触れ」の部分なのだ。
突如現れたニセモノはいったい何なのか? その目的は?
スリリングで謎に満ちた理不尽かつ理解不能な恐怖を、時にユーモアを交えながら軽快に描くのは、傑作スリラー『ゲット・アウト』(2017)でアカデミー脚本賞を受賞したジョーダン・ピール監督である。
不吉なことが起こりつつある違和感、降りかかる意味不明な災難、そして冗談としか思えないような驚きの真相解明と、大胆でありながらも冷静沈着な脚本&演出が特徴。
今回も『ゲット・アウト』同様に、一見してどんな映画なのかが見えにくい、最後までその全貌を予測できない作品となっている。
つまり、『Us/アス』におけるドッペル家族の襲来にはもちろん大きな“意味”がある。
その“意味”がわかるのは物語の超終盤であり、観客はラストのラストで、残暑などなかったかのように死ぬほど背筋を寒くするという寸法だ。
ドッペルゲンガーの恐怖とは?
「この世の中には自分そっくりの存在が3人いる」といった話を子供時代に聞いたことがある。
当時は、自分のそっくりさんがどこかにいるというファンタジックな話に素直にワクワクしていたが、いま考えると絶対に会いたくないなと思える。
自分と瓜二つの顔を持つ他人と遭遇するなんて恐怖でしかない。
ドイツ語で「分身」を表す“ドッペルゲンガー”という現象は、自分が「もう一人の自分」を目撃してしまうことで、それは自身の死の前兆を意味するとして恐れられている。
つまり、ドッペルゲンガーを見てしまった者は近日中に絶賛死亡確定というわけである。
ニセモノがホンモノを殺し、なり替わってホンモノとして生き続けるという説もあれば、単純に「自分」を見てしまったショックから精神に異常をきたして死を迎えるという説もあるそうだ。
ドッペルゲンガーは不吉な概念であり、モンスターや幽霊に匹敵するほど人間にとっての恐怖の対象なのだ。
ではなぜ「自分」がこれほど怖いのだろうか?
対峙する「もうひとりの自分」が、自分とは正反対の人間であることへの恐怖か、あるいは自分自身が社会生活で隠している“本性”の具現化であることへの恐怖か。
相手が「自分」だからこそ、思考や行動もまた「自分」と同じですべて読まれてしまうという恐怖もあるかもしれない。
とにかく、自分自身がいちばん理解しているはずの「自分」が、理解できない存在として目の前に現れる恐怖こそがドッペルゲンガーの恐ろしさなのだろう。
ジョーダン・ピール監督は、史上もっとも恐ろしい物語を創る上でそこに着目したのだ。
この着眼点、そしてドッペルゲンガーをきっかけに広がる、アメリカの社会における貧困や格差への問題提起とも言える壮大な展開に驚愕を隠せない。
敵は自分であり「わたしたち」、つまり社会なのだ。
まとめ
自分にそっくりの人間は存在する。
それは科学的にも立証されており、もともと人間の顔の特徴を決める遺伝子の数は限られているということなので当然と言えば当然の話だ。
しかし、ドッペルゲンガーは単なる「そっくりさん」ではない。
「自分そのもの」であるというところに救いがたい絶望と恐怖がある。
さらに『Us/アス』は決して怖いだけの映画ではない。
混乱の中に描かれる人間の強さや滑稽さ、テンポ良く進むスリル満点なサバイバル展開、ホラーエンターテイメントとしての完成度の高さに誰もが驚くだろう。
100点満点!