ローデッド式デヴォンクラッチ

映画ファン最後の良心デヴォン山岡が映画を楽しみまくって感想を書きます。

すべての思春期に捧ぐ『惡の華』 クソムシ共よ、これが青春だ!

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有名なマンガ原作だということをまったく知らずに鑑賞したが、監督が監督なのでまあ「お察し」というか、ただの青春映画ではないことは予想していた。

しかしながら、煽り文句に“超〈変態〉狂騒劇”などと書かれると俺としては不安しか感じない。

「変態」を売りにしている時点で、それはファッション的かつ商品的な意味合いをはらんでしまうわけで、世間が求める「変態」とホンモノの「変態」は明らかに違うわけじゃん。

一般映画が売りにする「変態」なんてのは圧倒的に前者であり、それはみんなが楽しめる理想の「変態」像に他ならないのではないか?

「変態」は決してポジティブなものではなく、背徳的かつ非道徳的、罪悪感とマイノリティの疎外感などに満ちたネガティブな概念であるべきなのだ。

で、この映画、好きなクラスメイトの女子の体操着のニオイを嗅ぐ主人公「春日くん」を演じるのは伊藤健太郎である。

果たして、彼が女子のブルマをくんかくんかしていたとして、そこに“変態的なおぞましさ”が生まれるだろうか?

 

否である。

 

男から見ても可愛らしい顔をした伊藤健太郎くんがいくらブルマを嗅ごうが、ブルマを履こうが、ブルマを頭に被ろうが、おそらくそこには“爽やかさ”しか漂わない。

そんな「日本一爽やかにブルマを嗅ぐ男」健太郎くんを罵倒し支配する存在、クラス内で生徒にも先生にも嫌われ孤立した異端女子「仲村さん」の役が、これまた日本人離れした美しさを持つ玉城ティナ嬢だ。

 

画的に美しすぎるこの2人の絡みの、いったいどこに変態的要素を見出せばいいんだ! イイカゲンにしろ!

 

などと、1ミリでもこんな面倒なことを思った俺みたいな人間にこそ観てもらいたいのがこの映画である。

 

惡の華』は、決して「変態」を描く映画などではなく、もちろん「一風変わった若者の色恋沙汰」を描く映画でもない。

この作品は「青春」の残酷さ、生きづらさ、ドス黒さ、危うさ、絶望感や閉鎖感を、とんでもない破天荒な方向性で表現した圧巻の青春地獄絵巻なのである。

主人公が伊藤健太郎玉城ティナという美男美女であることは、この作品における唯一の救い、作り手による鑑賞者への慈悲でしかない。

これがもしブスな男女で描かれたら、誰一人として鑑賞に耐えられないし、あまりの地獄に上映中ショック死、あるいは自殺してしまう人も続出するであろう。

 

 

 

Mすぎてエモすぎる井口ワールド

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惡の華』は、クラスのアイドル「佐伯さん」(秋田汐梨)に恋する春日くんが、放課後に誰もいない教室で彼女の体操着を思わず盗んでしまい、その様子を仲村さんに目撃されて弱みを握られてしまうことから始まる。

仲村さんに「バラされたくないなら契約しよう」と持ち掛けられて無茶な要求(彼らにとっての変態行為)に応える春日くんが、じょじょにM性を開花させていくシーンは本当に素晴らしい。

日本映画界の国宝級マゾ男、井口昇監督の最新作に相応しい、というか水を得た魚のような堂々たるM男覚醒演出は監督の面目躍如といったところである。

井口監督と言えば、デビュー作の短編映画『わびしゃび』が、学生時代の監督自身が後輩の女の子に告白するまでの葛藤を8ミリで記録した壮絶なドキュメンタリーだった。

今思い起こすと、『惡の華』の春日くんと『わびしゃび』において恋に悩む井口監督との姿が重なる部分があり、またそれが学生時代の俺自身の悶々とした日々にも重なったりして、要するに圧倒的にエモいのだ。

井口監督が、このマンガを読んで「俺はこれを映画化するために映画監督になったのではないか」などと神の啓示を受けた理由がよくわかる。

『わびしゃび』で描かれた孤独な片思い同様に、『惡の華』もある意味その歪みゆえに成就しない片思いの物語である。

春日くん、いや『惡の華』の悩める主要キャラ3人全員が“あの頃の井口監督”そのものであり、きっと井口監督は3人のことを誰よりも理解できたのだろう(ヘタすりゃ作者よりも)

 

 

 変態は自分の中にある

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まるで自分の青春時代を見ているかのようにリアルな青春地獄。

もちろん俺は、実際に女子のブルマを盗んだりしたわけではないが(本当にしてない。お願いだから信じて)、憧れの女子の体操着姿を見て悶々とする主人公の気持ちなんか痛いほどわかるし、思春期の絶望的な気持ちを本や映画に逃避することでやり過ごしたり、「俺は他の人とは違う」と信じることで孤独の拠り所としたりと、劇中のあらゆるシークエンスが心当たりありまくりで困る。

とにかく大人たちやその社会がものすごく汚らわしい世界に見えて、さらにそういった世界へと何の疑問もなく足を踏み入れようとする同世代たちを蔑んだ目で見てしまう感じ、まさに「青春」だよね。

 

他の人と違う=「変態」でありたい。

自身のアイデンティティの欠落を「変態」という逃げ道で補完しようとする主人公は、いっそ「変態」であれば苦しまずにいられると思い、その異世界の扉を開けようと四苦八苦するわけだが、結局のところアイデンティティってのは他者との交流において確立するものだ。

春日くんも仲村さんも、孤独ゆえに自己像を認識できずにいたわけで、そんな歪んだ2人が関わりを持つことで、事態はより一層に歪みまくり、さらに佐伯さんをも巻き込んで混沌へと突き進む。

このへんのモヤモヤ感というか、もっとシンプルに生きればいいのにそうはいかない複雑な心境が見事に表現されていて、心当たりありまくりの俺にとっては恥ずかしくてたまらないのだ。

もうすっかりと忘れていた中学生時代の黒歴史を紐解かれたみたいに、羞恥心を大いに刺激される物語である。

「変態は自分の心の中にある」

劇中こんなセリフが飛び出す(たぶん)

「変態」は「愛」と同じでカタチなど無い。

見た目や行動などの表面的なモノではなく、「変態」は一種の概念として心のずっと奥に隠されているべきもので、他人にこれ見よがしにアピールするものではないのだ。

 

 

とにかく女の子がギネス級にカワイイ

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心が痛くなるほど切なくて、気が狂わんばかりにエモいこの作品。

原作における世間の評判には「胸糞」というワードも上がっているが、映画版に関してその感覚は皆無である。

 

なぜなら出演者がとことん美しいからだ。

 

伊藤健太郎玉城ティナという透明感を絵に描いたような存在に加え、佐伯さん役の秋田汐梨のアイドル然としたキュートさには春日くんでなくとも心が射ち抜かれてしまう。

しかもブルマ姿がマジで今世紀最高にエロいので、鑑賞後に思わずブルセラショップに立ち寄ってしまいそうになったほどだ。

井口監督の目線ともいうべきカメラアングルのエロさは異常で、映画じゃなきゃ完全に犯罪!(当たり前)

さらに高校時代の春日くんと恋をする常盤さん役の飯豊まりえがまた凄い。というか存在がエロい。経験済み感がたまらない。

そもそも「飯豊まりえ」という名前の字面がエロい、「豊」という漢字&「ま」というひらがな表記は卑猥すぎて反則!(落ち着け)

 

井口監督の映画を観るといつも思うが、女の子の撮り方が異常にウマい。

清純さの中にしっかりとエロさを醸し出す魅せ方に、観ているこっちが罪悪感を抱いてしまうほどである。

つまりこの映画、目線が完全に思春期のソレ。

誰もが青春時代にタイムスリップして地獄ライドできる、究極の青春映画なのであった。ほげ。

 

 

 

惡の華
9.27全国青春ロードショー!