ロマンチックな老夫婦のグロテスクな欲望! 究極のくそったれホラーエンタテインメント『X エックス』!
タイ・ウエスト監督が、昨今の高齢化社会の首元に鋭いドスをぶっさす究極のサイコホラー『X エックス』を観て心から感動した。
古き良き80年代スラッシャーホラーへのリスペクトに満ちていて、いろんな作品のネタやオマージュがあって、ホラー大好きな人には、オモシロ怖くてめちゃくちゃエロくて超刺激的なエンタメとなっている。最高だ。
ハッキリ言って何を書いてもネタバレになんかならないほど、ストレートかつシンプルなストーリーなのだが、やっぱ実際に観て、その刺激的なシーンを堪能して欲しいので内容については割愛し、感想だけ書く。
物語の舞台は1979年のテキサスのクソ田舎。
「調子に乗った若者たちが田舎でサイコに殺される」という『悪魔のいけにえ』方式のオーソドックスな導入ながら、根底にあるテーマやメッセージが身に沁みるというか、めちゃくちゃ社会派で考えさせられた。
ポルノを規制する連中はいつの時代にもいるもので、作中のテレビでも権威ある立場のキリスト教徒らしき人物が「性を楽しむ乱れた若者たちを許すな!」みたいな演説を行っており、特に高齢者(しかも田舎の)はセックスに対して異常なまでの嫌悪感を持っていることが示唆される。
我々が生きる現代社会でも、一部のセックス嫌悪派が「性風俗産業」への差別を善行のように行っており、セックスワーカーたちが「悪」とみなされるような風潮が続いている。
つまり1979年の空気感が、いまでも十分なリアリティをもって鑑賞者にのしかかっているのだ。
ずっと昔から、残虐な暴力行為や歪んだ女性嫌悪を生み出す要因のひとつとして「社会的な性的抑圧」が関係しているという意見も聞くが、この作品はまさにドンピシャでそれをホラーエンタメとして落とし込んでいるから凄い。
この『X エックス』は、暴力描写や性的描写で攻めているのはもちろん、良識や道徳を武器に性的抑圧を行ってきた大人たちが今まで見て見ぬふりをしていた「性的欲求や性的快楽の必要性」をしっかり突き付けているから凄い。
で、この作品、そのタイトルや作風から、18禁映画かと思わせておいて実はレーティングは「R15」である。
若者たちが鑑賞できるよう頑張ったとは思うが、ここはひとつタイトルにちなんで「X指定(R18・成人映画)」で公開する、といった思い切りもアリだったのではないか。
また、この映画には一部、ボカシが入るシーンがあり、そこに関してはもう呆れた。
性器を隠すことで「何か正しい事をしている」と思いたいんだろうけど、この作品のテーマでもある性表現への嫌悪を、映画配給側がやってしまっていることに絶望的な気持ちにならざるを得ない。
昔『ターミネーター』という映画の序盤で、未来から1984年に降り立ったターミネーター(アーノルド・シュワルツェネッガー)が全裸でブラブラ歩くシーンにおもむろにボカシが入ってめっちゃ笑った。
殺人マシーンの股間にボカシ入れる奴の神経どうなっとんねん と。
あれから30年以上経つのに、いまだに性器にボカシ処理を入れている我が国の芸術感覚。
別に性器が見たいというわけではなく、単純にヴィジュアルとして美意識に欠けているし、そもそもボカシなんかに何の意味もないってことに誰も気づいていないことに惨憺たる気持ちになるのだ。
しかし、この作品は純粋なエンタテインメント作品であり、攻めたテーマやメッセージは添え物に過ぎないのも事実。
常に半裸でそのへんをウロウロする若者たちのエロさと、そんな彼らが次から次へと容赦なく殺される爽快感は、まさにホラーの醍醐味。
俺自身が欲求不満だからこそ、乱れた若者に鉄槌を下す老夫婦たちに感情移入せざるを得ないのも、俺が高齢者側の人間であることの証明なのだ。つらい。
あと『X エックス』は圧倒的に高齢者の解像度が高いというか、単に若者にイライラしているとかではなくて、「老人だって人間なんだ!」という悲痛な叫びをもって若者を殺していることに好感を持つ。
「老い」という逃れられない運命を前にした絶望と、失われた「若さ」への羨望が、残虐な暴力行為へと駆り立てるという流れはめちゃくちゃ共感できるし、またそれを本人たちが自覚しているのもロマンチック。
この殺人鬼老人は、めちゃくちゃロマンチックゆえに歪んでしまったと言えるので、そこに哀愁も感じることができるのはキャラとして強い。
恐さと面白さに身もだえしながらも(「若さ」の価値は、それを持っている時には気付かないものなんだなあ)などとしみじみと考えさせてしまう深い脚本が見事であった。
傑作。
ところで、ここ数年「老人が怖いホラー映画」が多すぎると感じる。
これもまた高齢化社会ならではで、なんか悲しくなる。
もう若者たちが遊び半分で殺し合う『スクリーム』みたいなスラッシャーが流行る時代じゃないのかもしれない。
圧倒的な面白さ! エンタテインメントの頂点に躍り出る超絶傑作『トップガン マーヴェリック』を体感しろ!
今や誰もが認める世界最高峰のスター俳優であるトム・クルーズがブレイクした1986年の大ヒット作『トップガン』は、映画史における重要な一本である。
しかしだ。
その名作の36年ぶりの続編『トップガン マーヴェリック』を観るために、わざわざ前作を予習するなんてくだらねえことはしなくていい。
前作を観ていない若者たちの中には「名前は知ってるけど観た事のない『トップガン』1作目を観なきゃ」なんて考えている人も多いと思うが、もちろん観たいなら止めはしないけど、別に前作を観なくたってぜんぜんイケるよ? と、声を大にして言っておきたいのだ。
『トップガン マーヴェリック』にそんなものは必要ないので、とにかく観ろと。
「前作を観ていなくても、今回の作品を楽しんでほしい。この点を大切にし、前作やその他の何かを思い出さないといけない状況は避けて、本作に集中できるようにした。本作品にも過去を振り返る要素は含まれていて前作を懐かしむこともできるが、ストーリーは独自のものとなっている」(トム・クルーズ)
※『トップガン マーヴェリック』:プロダクションノートより抜粋
つまり36年前の作品の続編だが、決して “懐かしさ” や “エモさ” を得るための映画ではないと。
当時『トップガン』を観て熱狂していた高齢者連中を喜ばせるために作られた映画じゃないんだよと。
『トップガン マーヴェリック』は、すべての映画ファンたち、あらゆる世代、あらゆる性別、生きとし生ける者たちすべてに「映画の圧倒的パワー」を体感させてくれる、究極のエンターテインメントなんだ。
ぶっちゃけ俺も『トップガン』1作目に個人的な思い入れなんか無いし、当時は単なる派手なアイドル映画みたいな印象だったから内容もほとんど忘れてるし。
なのに、そんな俺でも上映終了後にヒザが震えて席から立ち上がることすら困難になったくらい、『トップガン マーヴェリック』はここ十年で観たどんな映画よりも衝撃的だった。
「面白かった」とか「感動した」とか、そんな陳腐なセリフではまったく表現できない壮絶な映像体験。
エイガ、スゴイ!
陳腐なセリフどころか、バカまる出しのカタコトしか出てこないから困った。
でもそれでいいんだ。
『トップガン マーヴェリック』の素晴らしさを語る上で、もはや語彙力など必要ない。いや必要だけどさ、だってスゴかったんだもん。ハンカチしぼったらバケツが水でうっぱいになるくらい泣いたわ。
まずは観ろ。観ればわかる。
続編映画を観るのに、事前に1作目を観てないのはナンセンスだが、だからといって36年も前の古典を鑑賞しなきゃいけないというのは一部の人にとっては腰が重たくなる作業ではないだろうか。
俺がもっとも恐れるのは
「『トップガン マーヴェリック』が観たいな。はやく1作目を予習しなくちゃ」
なんて言ってウダウダしていたら、いつのまにか公開が終わっていた。などという悲劇が実際に起こりうることである。
この忙しい現代社会、金も時間もないのに仕事や責任や社会的役割だけはやたら増えていく理不尽な世の中で、『トップガン』1作目を予習する時間を作るのは非常に難しいだろう。
だからこそ俺は声を大にして言う。
予習なんていいから、まずは『トップガン マーヴェリック』を観ろと。
前述したように、『トップガン マーヴェリック』は1作目を知らなくても楽しめるような丁寧な作風になっているし、マーヴェリック鑑賞後に1作目の『トップガン』を観れば、これまた貴重な感動体験ができるのは間違いないし。
もちろんすでに『トップガン』観ている人にとって、アツいシーンが山ほどあるので、1作目を観て2作目に挑めばその感動もまた大きくなるだろう。
『トップガン』1作目の時代から、30年間ずっと現役パイロットを続けたマーヴェリックの、正真正銘の “その後の物語” が、大迫力のアクション、感動のドラマ、ゴージャスな映像、魅力的なキャラクター、そしてトム・クルーズのオチャメな笑顔によって紡がれる。
当時、『トップガン』を映画館で観た人、家族みんなでVHSで観た人、テレビ放映をワクワクで観た人たちにとっては、懐かしさで狂喜乱舞してしまうシーンも満載。
しかし、この俺のように『トップガン』にあまり思い入れのない人間でも、問答無用で感動&興奮してしまうほどの圧倒的な映画的パワーこそが『トップガン マーヴェリック』の見どころだ。
だからこそ【36年ぶりの続編】である前に、【最高の俳優トム・クルーズが【超ヒットメーカー】ジェリー・ブラッカイマーと久々に組んだ最新作である】という一点のみを期待して鑑賞するのも全然アリなのだ。
面白いことは想定内。傑作であることは確実。
“トム・クルーズが関わっているのに、ただの回顧主義的な作品になるわけなど無い” という強い信頼感。
『トップガン マーヴェリック』は、そんな俺たちの大きすぎる期待を軽々と越えていく。
目の前に現れたのは “懐かしさ” や “エモさ” とは対極にある「新鮮さ」と「驚き」、「刺激」と「興奮」に満ちた圧巻の映像体験であった。
トム・クルーズはマーヴェリックである
『トップガン』シリーズは言うまでもなく米軍全面協力の本格アクション大作だ。
主役のマーヴェリックを演じるトム・クルーズは、米海軍の戦闘機「F/A-18」を自ら飛行しながら撮影するために、実際の軍事基地で航空サバイバル・トレーニング・カリキュラムを受け準備をした。
つまりトム・クルーズは、実際に飛行中の「F/A-18」のコックピットで演技をしているのだ。
この作品の空撮シーンのリアリズムと迫力は、すべてトムの役者として妥協しないチャレンジ精神が生んだクオリティだと言ってもいいだろう。
「トムが映画界最大のスターの一人であることは偶然ではない。彼の関わる映画が良く出来ていて、良いものが多い理由は、トムが多くの時間とエネルギーを費やし、全力を傾けるからだ」(ジェリー・ブラッカイマー)
※『トップガン マーヴェリック』:プロダクションノートより抜粋
トム・クルーズはこの『トップガン』シリーズだけでなく、『ミッション・インポッシブル』シリーズや『バリー・シール』などでも実際に飛行シーンをこなしているのは周知の事実。
ご存知『ミッション・インポッシブル』シリーズのトム・クルーズは、飛行機にしがみついてそのまま離陸したり、高度7620メートル(!)からスカイダイビングをしたりといったヤバイスタントを自ら積極的に行っているから凄い。
CG技術の発展したこの時代に「もうお前がそれやらなくてよくね?」みたいなデンジャラスなスタントを率先してやってのけるトム・クルーズのチャレンジ精神というかバイタリティというか、それを狂気だと捉える人もいるかもしれないが。
「もし僕がこの映画で人々を楽しませるなら、すべてを実際に撮影する。僕はあの「F/A-18」に乗る。だから、カメラリグを開発しなければならない。何年も前から「CGIで撮れないのか?」と言われ続けてきたが、僕はいつも「だめだ、それは体験じゃない」と答えてきた」(トム・クルーズ)
※『トップガン マーヴェリック』:プロダクションノートより抜粋
製作陣は、海軍と連携してコックピットの中を撮影するためのカメラを開発した。
すべては最高の作品の為、そしてそれを楽しむ俺たちファンの為である。
トム・クルーズにあるのは、役者としての飽くなきチャレンジ精神と強いプライド。
そう、まさに『トップガン』の世界で、伝説の戦闘機パイロットとして不可能を可能にしてきたマーヴェリックそのものなのである。
パイロットとしての優れた素質だけでなく、習得した数々の専門知識やアイデアの発想力を駆使して、逆境を乗り越えるマーヴェリックの生き様は、トム・クルーズの俳優人生とシンクロしているかのように見えるのだ。
魅力的な仲間たちとの友情がアツすぎる
伝説のパイロット、マーヴェリックが指導者として若きトップガン・パイロットを育てるという物語がもうアツすぎるわけだが、その若者連中がこれまた個性が強くて魅力的。
物語の中心となるのは、指導する側のマーヴェリックと「若きトップガン」ルースターとの複雑な関係性で、何を隠そうル―スターは1作目でマーヴェリックと組んで事故死したRI(レーダー迎撃担当) “グース” の一人息子だからこそ根が深い。
そんな因縁(というか哀しい過去)のあるル―スターだけでなく、有能だが自己中心的なハングマン、女性パイロットのフェニックス、オタク気質のボブなどなど、個性豊かなトップガンメンバーたちの「コールサイン」での呼び名もめちゃくちゃカッコイイ。
ちなみに、1作目の『トップガン』の当時は女性パイロットの戦闘参加が禁止されていたが、1993年にそのルールが撤廃されたので、今回の続編における紅一点のフェニックス役のモニカ・バルバロがキャスティングされたのだ。時代は変わる。
さらに驚くべきことに、今作はトム・クルーズだけでなく、他のトップガンのクルーたちも、実際に飛行中の「F/A-18」のコックピットで演技をしている。
飛行中にかかる想像を絶するGや方向感覚のわからない状況を耐えながら、その環境で演技もしているなんて、マジでとんでもない役者魂。
トム・クルーズの妥協しない精神が、共演者たちにも影響を与えていたのだろう。
まとめ
『トップガン マーヴェリック』は今世紀最高の娯楽大作だ。
名作の待望の続編であるという以上に、映画としての完成度、エンタテインメントとしての存在感、映像の迫力が圧倒的。
さんざん書いたように、続編でありながら1作目を観ていなくても十分楽しめる。
しかし1作目が大好きな人にとっては、マジでアツい内容になっているのも事実。
物語だけでなく、1作目の監督である、今は亡きトニー・スコットの手掛けた映像へのオマージュ的なシーンやヴィジュアル、誰もが記憶しているあのサウンドトラックの楽曲など、当時のファンにはたまらない演出がたまらん。
どう考えても完全無欠の続編。
コロナ禍で封切タイミングが遅れたのも納得だ。
この作品は全人類が観るべき映画なので、入場規制されたような環境で公開するなんて耐えられない。
ハリポタ嫌いなのに『ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密』がメチャ面白かった人はだいたい友達
ハリーポッターはシリーズ途中で断念した。
というか、1作目から普通に面白くなくて、「クリス・コロンバスの映画けっこう好きだったのになあ」なんて残念な気持ちになりつつも、もしかしたら2作目から面白くなるのかもしれないとか思って『秘密の部屋』(2作目)を観た。
でもやっぱり面白くない。パンフレットまで買ったのに。
しかし、あいかわらず映画は大ヒットしてるし、原作シリーズもベストセラーだし、もしかしたら俺の感覚が間違っているのかも。俺の脳(もしくは精神)には重大な欠陥があるのやもしれない! などと心配になったりならなかったりしながらも、健気に『アズカバンの囚人』(3作目)公開初日に映画館へ。
それもうハリーポッター好きじゃん。
などと、心無い陰口を叩かれたことがきっかけで、“映画館で観る行為は誤解を招く恐れがある” と気付いて『炎のゴブレット』(4作目)と『不死鳥の騎士団』(5作目)はちゃんとDVD化するのを待って半ば投げやりになりながら鑑賞したが、映画館だろうが自宅のテレビだろうが面白くないモノは面白くない。
ハリポタは面白くない! 間違いなく面白くない!
1作目公開時から長い年月をかけて、5作目でやっと俺の中で結論が出た。
これだけ頑張っても面白くないなら諦めもつく。あー、すっきりした。
ハリポタはしょせん子ども向けファンタジーで、たとえば『ダレン・シャン』とか『デルトラ・クエスト』とか、小学生が図書館で見つけて読んで世界観にハマる感じの作品で、大のオトナが好き好んで観るモノでは無いというか、要は「子どもが主役のファンタジー」って子どもが読むから楽しいんだよねってこと。
そこを踏まえると、俺が【ハリポタは嫌いだけど『ファンタスティック・ビースト』は好きな理由】が明らかじゃないか。
なぜならファンタビには、見事にオッサンとオバサンしか出てこないのである。
主役である魔法動物学者ニュート・スキャマンダーくん役のエディ・レッドメインは40歳、ヒロイン的存在のティナ役キャサリン・ウォーターストン嬢は42歳、愉快な相棒ジェイコブ役のダン・フォグラーは45歳、マグル好きの変態美女クイニー役のアリソン・スドルは37歳と、主要キャラクターがことごとくR40という、まさに中年大活躍映画。
こんなもん、俺たちが観ないでどうする? むしろ子どもなんかに、この作品の哀愁がわかってたまるか。
中年まで恋も知らずに趣味に没頭してきたニュートが、ティナに想い寄せるも伝え方がぎこちない感じとか、冴えないジェイコブが突然美女に好かれて「俺なんかをどうして」と戸惑いを隠せない様子とか、過去の恋愛に囚われて苦悩するダンブルドアとかさ。
書いてて泣けてきたわ。大人ならではのこの不器用さ、ファンタジーでありながら人間関係だけやたらとリアルな感じ。完全に俺たち向け。
中年オタクが主人公の映画なんてだいたい傑作だよね。
つまり俺たちのジェイコブが大活躍するから傑作
ファンタビと言えばジェイコブ。
もはや「ジェイコブ」こそがタイトルの「ファンタスティック・ビースト」そのものなのではないか?
一見、ファンタスティック・ビーストとはニュート・スキャマンダーくんが、実写版 “ばくさんのカバン” とも呼べる不思議なトランクの中に飼っている魔法動物たちであるかのようなミスリードがされているが、実はニュートにとってもっとも不思議かつ奇妙な生き物は「マグル」の中でもとびっきり善人でオチャメなジェイコブなのであった。
シリーズ最終回で、ニュートがついにジェイコブをあのトランク内に住まわせて、助手のバンティが毎日お世話をしているというショッキングな展開が描かれる(もちろん嘘)
本家ハリポタとは違って、ファンタビは「マグル」のジェイコブが大活躍するから面白いわけで、魔法の世界に偶然関わってしまった単なるオッサンが、人間界と魔法界の今後を左右する大事件の中心で愛を叫ぶ。
魔力を持たないのはもちろん、人間としても冴えなかったオッサンが、美しい魔女に言い寄られ、偉大なる親友を得て、多くの人々に認められ世界を救う。
これぞ世のオッサン達にとっての胸アツ展開。
特に今回は、ジェイコブが例のとぼけた顔であり得ないほど良い仕事をしてくれるので必見だ。
ストーリー展開がマジでアツいので傑作
ダンブルドアと言えばホグワーツ魔法学校の校長先生であることは、ハリポタを一瞬でも観たことがある人ならば常識である。
このダンブルドアさん、本家ハリポタでは「凄い人だが今じゃ役立たずの爺さん」といった印象だったが、ファンタビシリーズではジュード・ロウ演じるイケオジで最強の魔法使いである。
彼は、過去にのっぴきならない関係性だったが闇落ちしたグリンデルバルトの野望を阻止するために立ち上がる。
そんな百戦錬磨のダンブルドアが、魔法省ですら手を焼くヤベー相手を倒すべく集めたチームこそが、ニュート・スキャマンダー、その助手のバンティ、ニュートの信頼できる兄テセウス、抜群の魔法力を持つ女教師ラリー、前作で異母兄妹のリタを殺されたユスフ、そして我らが普通のオッサンのジェイコブの6人である。
このデコボコチームが、悪のエリート軍団に挑むという展開が超アツい!
デコボコゆえに相手が予測もつかない反撃を見せる闘いは、まさに『SLAM DUNK』インターハイ陵南戦における桜木花道の活躍さながらの痛快さである。
さらにファンタビお馴染み、ニュートが可愛がっている魔法動物たちも最高にユーモラスで良い仕事をしてくれる。
俺は現実では動物なんか大嫌いだが、ファンタビの魔法動物たちはカワイイから大好きだ。
キラキラ光るモノに目が無い“ニフラー”(種族名)の「テディ(個体名)」、バッタかナナフシを彷彿とさせる“ボウトラックル”(種族名)の「ピケット(個体名)」のほか、ワイバーン(種族名)や伝説の生き物である麒麟(超キュート)まで登場するので、カワイイモノ好きにはたまらんのである。
関係者がことごとく別の意味でお騒がせ中なのがネック
さて、ここからは愚痴になるが、この作品が傑作でありながら大傑作とまではいかない理由がある。
それが敵キャラのグリンデルバルド役交代という悲劇である。
1作目・2作目でいい味出していたジョニー・デップが、なんだかんだで元嫁のDV疑惑かなんかで裁判中であり、内容が内容だからか降板し、今作でグリンデルバルトを演じるのはマッツ・ミケルセン。
マッツ氏は映画ファンの間ではすこぶる評判の良い俳優だが、普段映画を観ない層からするとジョニー・デップの代わりとしては違和感が大きいだろう。
俺的にも、マッツ氏のカリスマやセクシーさ、キュートさなどはグリンデルバルトとして申し分なしではあるが、やはりジョニー・デップの魅力には叶わないなと残念にならざるを得なかった。
また、ヒロインとも呼べるティナが不在であることもモヤモヤしてしまった。
一応「多忙でこっちに関わってるヒマがない」という理由付けがされているが、彼女の活躍も正直見たかった。
さらに、原作者JKローリングが差別発言をしてハリポタ主要キャラの俳優たちやファンタビのエディ・レッドメインに非難されたり、今作の鍵を握るキャラクターであるクリーデンス役のエズラ・ミラーがストーカーかなんかで逮捕されたりと、映画に関係ないところでお騒がせ状態なのが本当にザンネン。
作品の出来と分けて観なければいけないのはわかるが、それはちょっと難しいよなあ。
まとめ:でも傑作であることには変わりない
もはやハリポタを本家と言うのはやめよう。
俺にとってはファンタビこそが本家であり、ハリポタは軽薄なスピンオフ。
ハリポタなんか『ワイルド・スピード』における『スーパーコンボ』、『ハムナプトラ』における『スコーピオン・キング』、『デアデビル』における『エレクトラ』、などと、スピンオフのたとえが貧弱すぎて自分で愕然とするが。
とにかく金輪際、「史上最高のファンタジー」=ファンタビ!
中年大活躍の恋と友情と魔法のファンタジーサスペンス、こんなに渋いのに史上最高のファンタジーとはナニゴトだろうか?
やはりファンタビはオトナの作品なのだ。
銃撃! 爆発!カーチェイス! わろてまうほど短いエンドロール! 『アンビュランス』は世界最高峰の娯楽映画どぁ!
「マイケル・ベイ作品を映画館で観ない」なんてのは映画ファンにあってはならない選択肢であり、映画館に行くことはもはや義務。
【年度末にはちゃんと確定申告しましょう】とか【バイト開始時と終了時にはちゃんとタイムカードに打刻しましょう】とか【自動車購入時にはちゃんと任意保険にも入りましょう】とかと同レベルに【マイケル・ベイの映画はちゃんと映画館で鑑賞しましょう】というのがある。
俺なんかは模範的な社会人なので、国民の義務とも言えるこのキマリを律儀に守り続けている。
正直なところ、もし映画ファンで「マイケル・ベイに興味が無い」なんて人がいるのであれば、逆に尊敬してしまいそうである。
マイケル・ベイを無視できる神経がマジで羨ましい。
ストーリーや出演者を確認しなくても、ポスターに出た「マイケル・ベイ監督作品」という字ズラだけで、もうほかのどんな映画よりも面白そうなので毎度困ってしまう。
普段はフットワークの鈍い初老の俺ですら、パブロフの犬さながらの条件反射で映画館に駆けこんでしまうほどの魅力がマイケル・ベイ作品にはあるのだ。
というわけで、マイケル・ベイ監督の待望の劇場公開作『アンビュランス』を鼻息荒くして鑑賞したわけだが、もう何を言っても陳腐な感想にしかならないので沈黙せざるを得ないほど衝撃的に面白かった。
銀行強盗が警察に囲まれて救急車を乗っ取って逃げるだけの話なのに、尺が137分もあって最初から最後までずっと面白いのはナニゴトだろうか?
この作品は、実は『25ミニッツ』という2005年製作のデンマーク映画のリメイクなのだが、調べたところオリジナル版の上映時間は77分しかないので、マイケル・ベイはそこをベースにプラス60分もの余計なバカ要素を詰め込んでいるということか。さすが。
キャラの濃い登場人物めっちゃいる
真面目な主人公(ヤーヤ・アブドゥル=マティーン二世 すげー名前)が、金に困って悪党の兄弟分(ジェイク・ギレンホール)に借金しようとするが、不本意ながら巻き込まれるようなカタチで銀行強盗のメンバーになってしまうというストーリー。
もちろんこの強盗計画、決行前から「失敗する予感しない」から凄い。
今まで何十件もの銀行強盗を成功させてFBIに目を付けられているほどのプロとは思えない人選で、マジでメンバー全員バカしか勢ぞろいしてなくて笑ってしまった。
ムダに個性的な強盗メンバーたちに加え、もう一人の主人公である救命士のクールな美女(エイサ・ゴンサレス)や、強盗を追う警察サイドにも異様に個性の強いキャラが揃っている。
さらに、奪った金のおこぼれにあやかろうと逃亡に協力する組織なども現れて、そいつらもオモロイ連中ばかり。
さすがマンガみてえなキャラ作りに関して右に出る者がいないマイケル・ベイだ。
『トランスフォーマー』シリーズでも、ロボット生命体のみなさんに人間以上に魅力的なキャラクターを授けてくださったが、今回の登場人物もモブですらしっかりキャラが立っていたりして抜け目がない。
人間ドラマと呼べるような内容は描かれていないのに、登場人物になぜか愛着が湧いてしまうのはこのキャラ作りの巧さゆえである。
俺は『アルマゲドン』でも恥も外聞もなく泣いてしまったのだが、やはりキャラクターが超絶わかりやすくてノリとイキオイで感動してしまったという部分が大きい。
そして今回も、銃撃と爆発と破壊でシッチャカメッチャカになりながらも、ラストでしれっと泣かせにくるからほんと油断ならない。
アクションシーンのカメラアングルが狂気
警察に包囲されて逃げ道の無くなった主人公が咄嗟に奪った救急車、それに乗り合わせていた怪我人と美人過ぎる救命士も交えての地獄の逃避行。
本気を出した警察とFBIの追跡で、LAの街がカオスワンダーランドと化す、ド派手なカーチェイスアクションを表現する縦横無尽なカメラワークこそがこの作品のイチバンの見どころだ。
おまえそれどっから撮ってんだよ! 的なアングルがバンバン飛び出して、好き勝手&自由気ままなドローンの機動力を駆使した誰も観た事のないカーアクション。
これをIMAXで観てるんだから、クルマがぶっ飛んで、爆発して、大破して、というシーンの度に「わー!!!」って大声上げそうになる。コロナ禍なのに。
「大迫力」などという常套句では伝わりきれないほどの阿鼻叫喚カーチェイス、あと序盤の銃撃戦もなにげに『ヒート』を思わせる臨場感で興奮モノだし、救急車内でも強盗と人質との気の抜けない心理戦が行われていてスリル満点。
ここでも「マジで今までよく成功してたな」って思うほど、リーダーのジェイク・ギレンホールが考えなしの言動を繰り出していくわけだが、もはやジェイクのブチギレ顔のアップですらスペクタクルなのであった。
超大作なのに超短いエンドロール
なんだろ。この映画、「自主製作映画かよ」って思うほどエンドロールが短い。
2時間越えの超大作で、出演者やスタッフの数はもちろん、街中でロケまでしているから協力企業とかも多いだろうに、まさかの1分くらいでエンドロールが終わる。
カーチェイスのスピード感が、そのまま爆速エンドロールにも繋がるという人知を超えた作品であった。
昔、ハリー・ポッターの何作目かを観に行ったときに、映画の内容がぜんぜん面白くなくて早く帰りたいのに、エンドロールが10分以上あって(もちろん体感で)マジでしんどかったのを一生覚えている(というか根に持っている)。
それ以来、映画のエンドロールなんかクソ無視して帰るようになったし、たまに「エンドロールまでちゃんと観るのが鑑賞マナーだ」とか抜かすバカを見るとマジでイラっとする。
そんな俺たち純粋無垢なホンモノの映画ファンのために、神様・仏様・マイケルベイ様は、しっかりとエンドロールを早送りしてくれる。ファストエンドロール万歳!
このような紳士的な配慮も含めて、やっぱり『アンビュランス』は今世紀最大のエンターテインメントであることに反論の余地は無いであろう。
よって、今年ダントツナンバーワン決定!
見事なまでに狂っている。今世紀最強の続編『ヒットマンズ・ワイフズ・ボディガード』
『ヒットマンズ・ワイフズ・ボディガード』がどれだけやべーかというと、鑑賞後に羅将カイオウの悪の演説を聞いたときのリンさながらに「く・・・狂っている・・・」とつぶやいてしまうほどやべーのである。
映画全体のぶっ飛んだイキオイとか、物語のムチャクチャさとか、俳優陣の異様なテンションの高さとか、とにかく挙げるとキリがないが、もっともヤバかったのはラストである。
マジでこのブログはネタバレ厳禁を主義として書いているわけだが、もう『ヒットマンズ・ワイフズ・ボディガード』に関してはラストを言いたい。
『ヒットマンズ・ワイフズ・ボディガード』のラスト、はやく言いたい・・・。
みんな、『ヒットマンズ・ワイフズ・ボディガード』をはやく見てくれ!
オラに元気をわけてくれ!
つーかそもそも『ヒットマンズ・ワイフズ・ボディガード』っていうタイトルがもう大嘘で、1作目の『ヒットマンズ・ボディーガード』は、“一流ボディガードがスゴ腕の殺し屋を警護する” ストーリーだったからこのタイトルで問題ないけどさ、続編である今作はタイトルのように、“殺し屋の奥さんを警護する” 映画なんかじゃないのよ。
というのも、一流ボディガードだったはずのライアン・レイノルズはボディガード協会から警護資格をはく奪されて休業中。傷心を癒すために、警護のことは忘れてのんびりバカンスをしていたタイミングに、超巨乳のサルマ・ハエックが大暴れしながらやってきてムリヤリ巻き込まれるという不憫な物語なんだから。
ライアン・レイノルズは前作の影響でメンタルが超アブナイし、サルマ・ハエックは超巨乳で超アブナイし、当然のように殺し屋のサミュエル・L・ジャクソンはイカレまくってるから超アブナイ。
前作は、主人公のライアン・レイノルズに人間味もあり、かろうじてヒューマンドラマ的な要素もあったので感情移入もできたが、今回に関してはまともな奴がひとりもいないし道徳心も皆無なので、観客は冒頭から遥か彼方に置きざりにされてしまう。
【超一流ボディガード】と【最強の殺し屋】の 相性最悪の凸凹コンビが世界を救う!
などと銘打った1作目は、古くは『48時間』や『ミッドナイトラン』、最近では『ワイルドスピード ホブス&ショウ』とかの系譜の正反対同士が組んで巨悪を倒すバディムービーだったが、この続編はなんとバディムービーですらないし、世界を救うのは片手間で、3人の狂人が人殺しをしまくるロードムービーみたいになってしまったのであった。
ストーリーがとにかく意味わかんないから誰か教えて
ここからは頑張ってネタバレしないように感想を書くね。
1作目は、ボディガードにとっては宿敵とも言える殺し屋を警護しながら、2人の類まれなる殺傷能力を駆使して巨大な陰謀を阻止するという明確なストーリーがあったが、この続編に関しては、なんかあったけ? ストーリー?
ちゃんと観てたはずなのに【ライアン・レイノルズが超巨乳のサルマ・ハエックと出会った瞬間に大量な死傷者の出る怒涛のチェイスシーンが始まって、サミュエル・L・ジャクソンが「マザファカ」を連発しながらわーわーやっている間にアントニオ・バンデラスとモーガン・フリーマンが出てきて殺し合う】ということしか思い出せない。
とにかく人がいっぱい死ぬ。
追跡シーンなどでの周囲への被害は、もはや『ダイ・ハード4.0』ばりの大惨事である。
で、主役のライアン・レイノルズも、たぶん2,3回死んでた(トム・クルーズばりに生き返る)。
サルマ・ハエックとサミュエル・L・ジャクソンは夫婦なので、ところ構わずFUCKをするが、その様子を近くで聞いているライアン・レイノルズがさらに病んでいく。
そんなのを見ている俺たちにも「いったい何を見せられているんだろう?」という素朴かつ純粋な疑問が湧いてくる。
といった具合。
キャラの立ってる登場人物がいて、倒すべき敵のテロリストもいて、それなりにスリルも演出しているのに、このイカレた3人がクレイジーすぎてストーリーがぜんぜん入ってこないのだ。
所々のシークエンスは思い出せるのに全体像がぜんぜん思い出せないや。なんでかな? ごめんね。
続編が突如劇場公開となった理由とは?
ご存知の通り1作目の『ヒットマンズ・ボディガード』は、Netflixで配信されており、映画館での上映は無かったはず。だのに続編の『ヒットマンズ・ワイフズ・ボディガード』は堂々と全国公開されるのはどのような了見なのだろうか。
実は前作が未公開なのは日本だけで、アメリカでは2017年に劇場公開され3週連続で全米1位を記録したヒット作であり、当然のようにこの続編も初登場1位になっているのだ。
で、今回は主要キャストのほかに、アントニオ・バンデラスやモーガン・フリーマンといった日本でもお馴染みのゲストが登場することもあり、この豪華さを劇場で堪能すべし! みたいな意図があったのかもしれないが、本当の理由を俺なんかが知るわけがねえ。
でも日本人の映画ファンは、なぜかアントニオ・バンデラスとモーガン・フリーマンが好きなイメージがあるよね。
「モーガン・フリーマンが出ていればとりあえず観る」などという人も多いだろう(『ドリーム・キャッチャー』とか)。
あと今回、アントニオ・バンデラスが敵役なんだけど、なんとサルマ・ハエックの “元カレ” という設定(若干ネタバレだけど知るか)は正直アツい。
バンデラスとハエック嬢の初々しいカップルのアクション映画と言えばみんな大好きな『デスペラード』。なんと1995年の作品だが、あれから27年もの歳月が流れ、熟したおふたりのツーショットが拝めるとなれば感動もひとしお。
バンデラスは脂の乗ったダンディーな俳優となっているし、ハエック嬢はオッパイのサイズが信じられないほどアップしていて、中年になって脂肪がうまいことオッパイに行きわたった結果だと思うとヨダレが止まらん。
豊満熟女サルマ・ハエックのエロを堪能できる作品として、最近であれば『ハウス・オブ・グッチ』も良かったけど、『ヒットマンズ・ワイフズ・ボディガード』ではもうほとんど主役なので、さらに思う存分オッパイを凝視できるぞ!
良いこのみんな! 映画館にいそげ!
人生で一度もグッチを身に着けた事の無い俺が、映画『ハウス・オブ・グッチ』に大興奮したワケ
当然のように俺は「GUCCI」のアイテムなど一度も所持したことはない。まったくお恥ずかしい限りである。
「いや高級ブランドなんかに興味ねーしw」などと鼻で笑っているが、要は経済的余裕が無いから手が出ないだけで、そもそも高級ブランドに「高級ブランド」であること以外の価値を見出せないというか、要はデザインの良さがわからない。
あと、そんなご身分じゃないというのも興味のない原因だ。
立場的に「高級ブランド」に身を包むことが一種の “武装” の役割になる人もいるだろうけど、ザンネンなことに俺は違う。
で、以前の俺であれば 「“高級ブランドを身に着けて自分を着飾る” なんて心が貧しいよ」とかなんとか詭弁を言っていたものだが、この映画を観たあとはガラッと変わるから驚き。
「GUCCI」、欲しいな。
そのデザイン的な魅力などまったくわからないが、とにかく「GUCCI」という世界観に惹かれてしまい、これはそのうち絶対に手に入れなければならん! という使命感と無意味な興奮に打ち震えた。
「GUCCI」、その甘美な響き。
他のブランドなどにはじぇんじぇん興味がないが、「GUCCI」は別!
なぜか?
もちろん “映画が面白かった” という短絡的な理由からである。
裏切りと確執のサスペンス展開が面白すぎる!
世界的に有名なファッションブランド「GUCCI」の創業者一族に起きた、愛憎にまみれたお家騒動(実話)を描くこの作品。
御大リドリー・スコット監督が、とんでもない迫力での映像化を実現しており、一瞬たりとも目が離せないスリル満点のサスペンスドラマとなっている。
「GUCCI」創始者の息子マウリツィオ・グッチ(アダム・ドライバー)とセクシーすぎる運送業事務員パトリツィア(レディー・ガガ様)との微笑ましいラブストーリーから始まり、ドロッドロの権力争い&嫉妬まみれの地獄展開を見せるクライマックスまで中だるみ一切なし。
当の「GUCCI」様にとってブランドイメージに大きく関わりそうな泥沼っぷりで、関係者もこの作品にあまり肯定的ではないとの噂も聞くが、いやこれはもう逆にブランドの魅力がかなりアップしたのではないだろうか。
マウリツィオが受け継いだ「GUCCI」の経営権を、豪胆な妻のパトリツィアが支配的に動かし、他のグッチ一族を汚い手で排除していくという陰謀めいた物語だが、すべてパトリツィアの「愛」と「正義」からくる行動として描かれているところが大きい。
もしパトリツィアが、単にグッチの権力や金を自分のモノにしたくて行動していたのであればここまで重厚な物語にはならなかった。
パトリツィアの強引なグッチ家改革は、彼女の信念に基づいており、自分自身が生き延びるために必要な行動だったゆえに、そこにパワフルな説得力が生まれるのである。
そんな彼女にいいようにコントロールされるマウリツィオもまた、自分の立場や商才の無さに苦悩する、その繊細さが同情をそそるキャラクターで良かった。
2人の心温まるラブストーリーからはじまり、グッチの経営をめぐるサスペンスと憎しみからの復讐へと至るドラマチックな「GUCCI」の過去。
デザインとか品質とかこだわりとかブランドの魅力関係なく、「GUCCI」が辿った衝撃の舞台裏を知ってしまった俺に、もはや “「GUCCI」を身に着けない” という選択肢はなくなってしまったのであった。
超実力派の豪華俳優陣がたまらん!
実力派の俳優たちが集まってギリギリの緊張感で演技する様子を眺めるのは、まさに映画の醍醐味である。
この場合の “ギリギリの緊張感” というのは、思惑の違う者同士のコミュニケーションにおける駆け引きのこと。
タランティーノ作品でよく見る「一触即発の敵との対話」とか、観てるこっちが冷や汗かいちゃうほど興奮する。
『ハウス・オブ・グッチ』には、そういった心地よくも刺激的な緊張感が始終漂っていてたまらん。
アダム・ドライバー演じるマウリツィオとレディ・ガガ演じるパトリツィアとの夫婦間の確執や経営陣とのやり取りはスリル満点だ。
ちなみに、本業がミュージシャンであるレディ・ガガの演技、マジで素晴らしい。
この作品で、ガガ嬢は20代から40代後半までの30年にもわたるパトリツィアの姿を演じており、もちろん高度なメイク技術やファッションなどの助けもあるが、見事に演じ分けていた。
メイクの凄さで言えば、才能は無いが野心だけはある従兄のパオロは、見た目デブハゲの冴えないオッサンだが、演じているのはなんとジャレット・レトで、6時間かけて特殊メイクを施しているとのこと。つまり面影ゼロ。
さらに「GUCCI」経営のトップとして手腕を見せた叔父のアルド役のアル・パチーノの演技が相変わらず大迫力で凄い。
最初にマウリツィオとパトリツィアとの結婚を反対する父親、「GUCCI」創業者のロドルフォには、久々に拝めたジェレミー・アイアンズ御大が扮しているが、これまた上品さと貫禄に満ちた存在感でたまらないのである。
この豪華賢覧な出演者陣、愛憎と裏切りの地獄展開、そして「GUCCI」ならではのゴージャスな舞台設定、そのすべてが俺みたいな貧乏人にとって未知のエンタテインメントとなり、贅沢で極上な159分が堪能できるのだ。
老いてますます盛んなリドリー・スコット監督、その抜け目の無さ、感覚の鋭さはまだまだ健在、というかさらに進化してさえいるからマジで見逃せない。
お願いだから早く『プロメテウス』三部作のラストを撮ってくれ!
『さがす』は、人々が生き方と死に方を「さがす」悲哀に満ちたサスペンス、よって死にたい人必見!
世の中に「死にたい人」ってどれくらいいるんだろうか?
なんてことをつくづく考えてしまう作品だった。
いや、「死にたい」というより「生きていたくない」のほうが正しいニュアンスかも。
無気力、貧困、諦め、社会からの孤立。この世に絶望し、サバイバルすることに疲れ果てた者は、皆 “死んだ方がマシだ” って心理になるのかな。たぶん。
でも自殺する勇気というか、そんなパワーすら無いから、悩み悩んだ末にSNSなんかに「殺して欲しい」なんて書き込んでみたりする。
自分で自分を殺すよりも、誰かにやってもらったほうがラクなのか、自殺すら自分の責任で実行したくないのか。
そのへんあまり理解できないけど、まあそんな人もいるらしい。
死にたくても死ねない人って、この世でいちばん不幸な人なのかもしれない。
なにも死ななくてもいいのに・・・。
なんてことを俺なんかは思うわけだけど、というか大部分の人はそう思うだろうけど、だからと言って「生きていればいいことがあるよ」なんて無責任なことは口が裂けても言いたくない。
きっと、死にたがっているような奴に、この先いいことなんかひとつも起きないだろうし。
といった前置きを書いたのは、この映画『さがす』は、絶望した人々が「死に方」や「生き方」を「さがす」物語だったからだ。
めちゃくちゃ悲惨な話だった。絶望を抱えて生き続けることの悲惨さ。
息苦しくなるシーンも多いし、不快になるほど生々しいシーンもあって、さすがこの監督、ポン・ジュノ作品で助監督経験があるって売り文句もダテじゃないなと思う。
この作品、とことん悲惨な話ながら、演出に奇妙な “軽快さ” があって、所々で笑えてしまったりするので怖い。
そのへんも韓国映画のテイストを意識してるのかもしれないが、絶望と混沌が彩る壮絶な物語の中で “それでも足掻き続けることの滑稽さ” が表現されているのだ。
佐藤二朗、見直した。
俳優:佐藤二朗が嫌いな映画ファンは多いと思う。
別にご本人がどういう人なのかはもちろん知らないし、あまり出演作も観てないけど、あの冴えない顔でブツブツと早口で面白いのか面白くないのかよくわからないセリフをつぶやいて、内輪ウケみたいな渇いた笑いを誘う感じの演技。
アレが超苦手で、なんというか、ネタで笑わせるんじゃなくて、面白くないことを強引にやり続けるから、結局こっちがもう呆れて笑っちゃうみたいな迷惑感。
そもそも福田雄一作品なんかでしか佐藤二朗の演技を観た事がなかったから、そのイメージで嫌いなのもある。
福田雄一がめちゃくちゃ嫌いだから、連動して佐藤二朗も嫌いだし、ムロツヨシも嫌いだし、でも橋本環奈はカワイイから好きだけど。
しかしながら、この作品『さがす』における佐藤二朗は、その「こいつウゼーな」的な迷惑演技が見事に功を奏しているというか、劇中で起こるドラマや人間関係の歪さを表現するうえで大きく機能していた。
佐藤二朗の独特のウザ演技で、娘との関係や妻との関係、そして殺人犯との関係がわかりやすく提示され、物語の胸ウソ悪さが一層引き立つしくみになっている。
つまりこの作品においては、佐藤二朗はめちゃくちゃ名演技。
映画『さがす』のストーリーは、佐藤二朗演じる父親が、中学生の娘・楓(伊東蒼、すごい巧い)に「お父ちゃんな、指名手配中の連続殺人犯見たんや。捕まえたら300万もらえるで」と言い放ち、次の日の朝に忽然と消えるというショッキングなエピソードから始まる。
行方不明の父を、タイトル通り「さがす」楓。
これが物語のメインストーリーかと思えば、第二幕ではこの親子の過去に遡った父親視点の地獄のストーリーが展開する。
突然ひとりぼっちになった楓が父親をさがすパートは、悲惨ながらもボーイフレンドとのやりとりなど微笑ましい瞬間も多かったが、父親のパートになると陰惨すぎて直視できない。
さらに、その後には、連続殺人犯(清水尋也)の激ヤバエピソードも始まるからもう “至れり尽くせり” とはまさにこのこと。
見たくないモノを全部見せてくれるサービス精神が素晴らしかった。
伊東蒼、よかった。
この作品における最大の収穫は、なんと言っても父親をさがす少女:楓を演じた伊東蒼である。
現時点で16歳と、役柄ともピッタリな年齢なんだけど、演技力はバケモノクラスでベテランかと思った。
あのクソウザ演技の佐藤二朗や顔つきが真正サイコパスみたいな清水尋也を軽く凌駕する圧倒的存在感はナニゴトだろうか。
『さがす』の悲惨さが、エンターテインメントに昇華した最大のポイントのひとつとして、彼女のキュートでパワフルな演技、空気感が一役買ったことは間違いないので、今後マジでその動向を追っていくべき人物である。
彼女に会えてほんとうに良かった。