ローデッド式デヴォンクラッチ

映画ファン最後の良心デヴォン山岡が映画を楽しみまくって感想を書きます。

目が覚めるほどの映画愛炸裂映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』

 

おそらくタランティーノって世界でいちばん自由に映画を撮っている人なんだと思う。

子供時代とか、ビデオ店でバイトしてた時代とかに感銘を受けたくだらない映画に執着して、映画監督としてそんなのがごった煮状態になった作品(いわゆる自分の中にある原風景としての映画体験を再現した作品)を撮り続けている。

しかもそれがしっかりとエンターテインメントとして完成していて、それなりの評価を得てヒットしているというところに凄みを感じる。

ギャング、カンフー、ホラー、ウエスタン、戦争、犯罪、カーアクション、こんなのばっかり観てきたから、作る映画もこんなのばっかりなのだ。

よって今回の作品、監督作9本目である『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』も、例によってこういったいつもの材料を下ごしらえもせずに全部まとめて鍋に放り込んで、塩コショウ代わりの饒舌トークで味付けして煮込んだ “ジャンクフード風タラ鍋” といった逸品。

他人の好き嫌いなどお構いなしで、自分の好きな具材だけで作る鍋ほど美味いものはない。

俺なんか食卓で鍋を囲む際に、大好きなシイタケやシメジをぶち込みたいが、俺以外の家族がキノコ嫌いであるゆえに「勘弁してくれ」と却下される。

しかしタランティーノは、大勢の関係者や鑑賞者に一切不満を言われずに、好きな具材を思う存分使って鍋を作れるのだ。

 

アレも入れとけ、コレも入れとけ、食い合わせなんか考えずに、俺が食いたいモノをぜんぶ入れるんだわーい!

 

そうやって出来た最高のタラ鍋を、有無を言わさず食わされてみる。

 

抜群に美味い。

 

ひと口目から最後のシメまで最高に美味いのだ。

つまりこの鍋、美味いのは食材でも味付けでもなく、きっと「愛情」という隠し味ひとつで、こんなにも美味くなってるんだろう。

タラの映画愛、ハンパねえな。


シャロン・テートの魅力がすごいよ



舞台となる60年代のハリウッドの内情など俺なんかに知るよしもないが、この時代におけるヒッピームーブメントの暗黒面とも言えるマンソン・ファミリーについては、映画ファンであれば多少は知っている。

1969年に起きたシャロン・テート殺人事件」は、美人女優が自宅で残虐に処刑されたという、その陰惨さにおいてインパクト抜群の出来事であり、俺なんかも若い頃に鼻息を荒くして詳細を調べ上げてみたりした記憶がある。

たぶん殺人現場の写真(シャロンの無残な遺体)なんかも見たので、この映画でその現場が再現されるのかと思うと興奮を隠せなかった。

劇中シャロン・テートを演じたのはマーゴット・ロビー嬢だが、ウルフ・オブ・ウォールストリートのエロ嫁やスーサイド・スクワッド(2016)のハーレイ・クインのようなビッチなイメージではなく、めっちゃキュートでお茶目な美女といった存在だったのは意外だ。

シャロンが映画館で自分が出演した映画を観ながら、観客の反応に一喜一憂するシーンなんて、なんかこっちまで嬉しくなってしまうほど健気で微笑ましい。

その時点で、もう何か予想と違う感があって、シャロンがむちゃくちゃカワイくて魅力的なのは、ちょっとこの後の展開を考えると辛い気持ちにもなった。

有名監督と結婚して順風満帆なセレブ生活を満喫する鼻持ちならないビッチ女優が惨殺されるのであればワクワクもできるが、庶民的感覚と良識と映画愛を持ち合わせた美しい女性が薄汚いヒッピーに殺されるのは普通に胸が痛い。

正直、俺の中でこのシャロン・テート役はマーゴット・ロビー史上最高の役柄だと思う。妊婦姿もたまらん。

しかしこの作品、悲劇を乗り越えてたくましく生きるロマン・ポランスキー監督にはどう映ったのか非常に気になる。

 

普通にゲラゲラ笑って観てそうだが。

 

 

 レオ様とブラピの魅力がすごいよ



かつてテレビの西部劇におけるスターであったが今は落ち目の俳優リック・ダルトンを演じるレオナルド・ディカプリオがさすがの演技で震えが止まらなかった。

やさぐれてアルコール中毒になるレオ様、思うように演技ができなくて発狂するレオ様、マカロニ西部劇を批判するレオ様、それでも自暴自棄にならずに頑張るレオ様等、俺の見たかったレオ様の姿が見事に具現化されているではないか。

レオ様っていつも神経衰弱な役が本当に巧く、もともとハンサムなのでどんなに薄汚れてもキマっていて華がある。

同じタラ作品のジャンゴ 繋がれざる者(2012)での悪党役も迫力満点だったが、やさぐれればやさぐれるほど魅力的な存在になるのが凄い。

さらに、そんなレオ様の専属スタントマンであり、身の回りの世話係であり、親友でもあるクリフ・ブース役のブラッド・ピットがこれまたイケメン。

セックスを全面に押し出したマンソン・ガールズの誘惑も軽く受け流して、ファミリーにおける「ヘルタースケルター」という思想をも暴力でへし折るタフガイぶりは、まさにタランティーノ映画史上最強のキャラクターともいえる存在だ。

タラ作品イングロリアス・バスターズ(2009)でも見せた、狂気をはらんだ危険な男を演じさせたら右に出る者はいないブラピならではのキャラクターである。

つまりこの作品は、今のレオ様とブラピの魅力を最大限に引き出すドンピシャなキャラクター同士が大活躍するのだ。

正反対なのになぜかウマが合う2人の友情がマジで泣けて仕方がなかった。



小ネタがすごいよ

タランティーノの映画が好きな人なら間違いなく楽しめる小ネタの数々が本当に楽しい。

どんなジャンルの映画だろうが、タラ映画の世界観はやはり同じなので、タラ映画はタラ映画が好きな人ほどたくさん楽しめるのだ。

所々でチョイ役として顔を見せる俳優の姿に、まるで知り合いでも見つけたかのような安心感とお得感を感じたり、いつも出てくるアイテム、女のケツや足の裏などのフェチ演出、クライマックスで突然入るナレーションなどなど。

これもまたタラ映画が好きな人だけの特権なのかもしれない。

デビュー作レザボア・ドッグス(1992)からついに長編映画9作目となり、タラ自身は10作品目での監督引退を表明しているが、実際のところどうなるのであろうか。

今作は60年代後半に起きたハリウッド最大のショック、「シャロン・テート殺人事件」を題材にしながら、タラの溢れんばかりの映画愛を注ぎまくったロマンチック作品である。

これを観れば、まだまだタラの映画愛と情熱は尽きることなく燃え続けているのは明らかだし、取り上げたいジャンルや演出したいシーンや撮りたい女優(性的な意味で)も無限にあるであろうことは想像がつく。

10作じゃ終わらんだろうね、タラは。

そんなことを確信した最新作であった。

 

『イエスタデイ』は、自分がどれだけビートルズが好きだったのかを思い知らされる映画どぁ!

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ビートルズのいない世界。

そんな悲しくも味気ない世界がもしあったとしたら、音楽は、カルチャーは、人類はどんな未来を歩んでいたんだろう。

ビートルズが存在しないということは、当然のように音楽界にビートルズの影響が無いということになるので、ポップスもロックも、なんならソングライティングのスタイルさえも今とはまるで違っている可能性も捨てがたい。

この映画の凄いところは、そのへんを妥協しないところで、つまりビートルズがいないってことはオアシスもいない。

ビートルズのスコアbookが売っていないので、きっと若者はギターを始めようと思わない。

そんな容赦のない世界観なのだ。

 

何を隠そう、俺ですら中学生時代にギターを始めたきっかけはビートルズで、発狂しそうになりながら必死で「In My Life」を練習した記憶がある。

俺にとってビートルズは初めてづくしの存在だった。

初めてバンドメンバー全員の名前を覚えたのはビートルズだし、初めて演奏とソングライティング両方をこなすバンドとして意識したのもビートルズ

音楽は聴いたり演奏するだけじゃない、自分で作ってもいいんだ! という発見があった。

俺だけでなく、多くの音楽好きがビートルズによって大きな感動となんらかの閃きを授かっているであろう。

 

『イエスタデイ』は、そんなビートルズの存在を誰も知らない世界に来てしまったミュージシャンの話。

しかもそいつが、じぇんじぇん才能が無くて、見た目も冴えなくて、根はいいけどダメダメな感じで、そろそろミュージシャンの夢を諦めようとしている男なのである。

 

目が覚めたら、ビートルズを知っているのは自分ひとりだけ。

 

どうする?

 

 

愚問である。

 

 

 

そんなもん盗作するに決まってる!

 

 

 

 

世間を熱狂させるビートルズの鬼楽曲が凄い!

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現代人がもし初めてビートルズを聴いたらどんな反応を見せるのだろうか。

そんな不謹慎な好奇心を満たしてくれる、売れないミュージシャン【ジャック】の華麗なる盗作劇。

「Yesterday」、「In My Life」、「Let It Be」と、名曲中の名曲を大胆かつ堂々と「これ、俺の曲」などとノタまい披露していくジャックのふてぶてしさたるやギネス級。

神をも恐れぬ悪魔の所業であるが、それが痛快で微笑ましいから困ってしまう。

 

あっという間に人気ミュージシャンのエド・シーランに目ざとく発見され、彼のライブのオープニングアクトをゲット。

つーか、エド・シーラン君、映画に出るときいつも本人役だからウケる。

 

そんな感じで、ビートルズの奇跡のメロディは遂にジャックの作品として世間に知られることになるわけだが、もう当然のように音楽業界が震撼しまくる。

ビートルズの楽曲の凄さは、その完全なるメロディラインと、さまざまなジャンルの音楽を取り入れて生み出された独創性。

それは、誰がどの時代に聴いてもやはり革命的に素晴らしいのだ。

結果、ジャックがビートルズの楽曲でド派手に売れてしまうわけで、天才降臨! なんて持ち上げられたりして、おいおいこれどうなっちゃうの? というスリルとサスペンスで先読み不可能な展開が待っている。

こんな大胆な脚本、よくもまあ実現させたものである。

 

 

 

 

鬼アレンジで魅せるビートルズの鬼楽曲が凄い!

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ジャックは誰も知らないのをいいことに、次々とビートルズの名曲を“そのまんま”パクりまくる。

しかし、ビートルズの楽曲ってさ、曲名もメロディもほとんど知っているけど、実際に正確に歌えと言われたら非常に厄介だよね。

たとえば「Eleanor Rigby(エリナー・リグビー)」なんか、メロディもコード進行も容易く思い出せるけど歌詞はすげえうろ覚えだったりする。

ジャックもそのへんで非常に苦労するのがとてもリアルで面白いのだ。

有名な曲でもそんなハッキリ覚えているわけないし、練習する際に何度も「あれ? この曲って歌詞どんなだっけ?」なんて悩みまくるジャック。

しかも存在しないバンドの曲なので、調べても誰も教えてくれないし、答えは自分自身の記憶の中にしかないというね。

盗作するのもいろいろ大変なんだなあ。

 

で、そんな苦労をしながらもジャックによって奏でられるビートルズの数々の名曲が、この時代ならではのアレンジで表現されるのだがそれがまた素晴らしくカッコイイ。

ジャックとしての解釈で再構築したビートルズの楽曲は、新鮮なのにオリジナルの感動をもしっかり残している絶妙なサウンドに仕上がっているのだ。

 

 

 

まとめ


ビートルズの楽曲で多くのヒットを飛ばしてしまう順風満帆な盗作男ジャックだが、彼は真面目な男ゆえに自分のやったことへの葛藤があるし、彼を唯一理解してくれるガールフレンドとも溝が出来てしまうしでもう大変。

ガールフレンド役は『シンデレラ』(2015)で俺のハートを撃ち抜いたリリー・ジェイムス嬢で、健気にジャックを慕う姿が可愛すぎた。

 

音楽映画であり、異世界ファンタジーであり、ラブコメディでもある、至れり尽くせりのエンターテインメント作品ではあるが、もしかしたらラストの展開には賛否があるかもしれない。

ラブストーリーとしてのハッピーエンドを望むか? 異世界ファンタジーとしてのハッピーエンドを望むか? という鑑賞者の好みにもよるかもしれないが。

 

俺の個人的な評価としてはこんな感じである。

 


100点満点!!!

 

 

シリーズ未見だってのに『HiGH&LOW THE WORST』が悶絶するほど面白かった件

 

昔はヤンキー物のジャンルって大好きだったけど、オッサンになったら別に興味がなくなっちゃったのは、もうヤンキーに感情移入できないどころか、自分がオヤジ狩りに合う危険性のほうが現実的になったからであろうか。

そんな俺が、このたび話題のヤンキーバトル映画『HiGH&LOW THE WORST』との奇跡的な邂逅を果たしたのである。

ついに、ウワサだけは耳にしてきたが、ずっと避けて通って来たハイローシリーズと正面切って対峙するときが来た。

 

つまり俺とハイローとのタイマン勝負である。

 

ちなみに、俺が今までハイロ―とのタイマンを避けて来たのは、この映画が単なるEXILEグループのプロモーション映画だと思い込んでいたからに他ならない。

ススキノのニューハーフたちが「抱かれたい男」のビジュアルとして挙げる率ナンバーワンのEXILE的風貌の連中が、カッコつけながら申し訳程度のヤンキードラマを繰り広げる映画なんでしょ、どうせ。

 

なんてことを勝手なイメージで思ってしまって本当に申し訳ございませんでした!

 

ハイロー、ムチャクチャ面白かったです!

 

ここ最近の邦画アクションの中では最高峰クオリティのハイテンション・バトルムービーで、さすがの俺も1ラウンド秒殺KO!

 

すげえ。マジですげえよこの映画。

 

圧巻のケンカ大乱闘シーンは『プライベート・ライアン』におけるノルマンディ上陸作戦もビックリの超絶臨場感。

100人くらいが一斉にバトルしていて、それを縦横無尽なカメラがぐりぐり動きながらナメ回すんだけど、もう全員が全力投球でケンカをしている。

スクリーンの端っこにいるヤンキーも死にもの狂いで敵を痛めつけているし、ドローンによる上空からのショットでは、ずっと後ろの方までボロボロになってケンカしているヤンキーたちの姿が確認できて、もう絵に描いたカオスになっている。

すべてのケンカに演出指導が入っているのだろうか? それともアドリブでマジバトルしてるのか? よくわからんがとにかく凄いショッキングヴィジュアルだ。

邦画のアクションでこんな迫力満点なバトルをはじめて観た。

 

これがハイロー・・・、いや、これが、若さか・・・。

 

 

ハイロー、ストーリー完璧すぎ

 

この映画は、主人公のケンカ大好き少年、花岡楓士雄が地元の凶悪高校「鬼邪高」に転校してくるところから物語が始まる。

ヤンキーものってのは、いつの時代も「転校生」が風を起こすところから始まるのだ。

この「鬼邪高」なる高校、まったくもって授業を行っている雰囲気が無く、先生の存在すら皆無である。

落書きだらけでゴミの散乱した廃墟のような校舎に、不良たちがたむろして雑談したりケンカしたりヤクを売ったりしているだけ。

みんな何をしに学校に通っているのか? そもそも登校しているのだろうか? もしかしたらこいつら、学校に住んでいるのかな。

不良版『がっこうぐらし!』みたいな世界観なのかもしれない。

そもそも高校名が「鬼邪高」だから、創立の時点でまともに教育する気が無いのは明らか。

そんな異世界然とした「鬼邪高」と敵対する「鳳仙学園」は、なんと髙橋ヒロシの不良マンガ『クローズ』や『WORST』にて描かれた世界線の不良高校である。

そう、つまりこの映画は、ハイロー世界と髙橋ヒロシ世界とのクロスオーバーなのだ。

さらに、髙橋ヒロシ自身が映画の脚本を手掛けており、不良たちのサスペンスフルな抗争劇はもちろん、友情ドラマとしても見応えがある。

2つの不良高校同士のゴタゴタの裏で暗躍する組織、主人公の幼馴染たちとの絆、そして仲間たちとの友情パワーがピンチを打破するのカタルシス

ハイロ―のぶっとんだ世界観と融合しても何の遜色も無く、むしろ違和感も感じないほどに馴染んでいるストーリー展開は本当に見事だった。

 

 

ハイロ―、キャラ完璧すぎ

 

当然のように、ハイローシリーズそのものが初見なので、もう世界観とかキャラクターとかはまったく知らずに観たわけだが、なんと開始早々にすべてが理解できてしまうのが素晴らしい。

まるで水がスポンジに染み込むように、舞台となる「鬼邪高」(ホントひどい学校名)の数十人を超えるヤンキーたちのキャラと序列と派閥が俺のアタマに怒涛のごとく入り込んでくるという凄いシステム。

それは、オープニングの “これまでのあらすじ” 的ナレーションに加え、ヤンキー物にお約束の情報通キャラ「ジャム男」くんによる不自然なまでの状況説明セリフの賜物である。

はじめての人も全然ウエルカムな親切設計。

まるで『死霊のはらわた3/キャプテンスーパーマーケット』のオープニングのようだと言えばわかりやすいだろうか(誰もわかんねー)

とにかく、これだけ大勢のヤンキーがわらわらと集まっているのに、しっかりと見分けられるように髪型や服装、言動などでそれぞれのキャラを立たせているのが本当に凄い。

 

主人公の花岡楓士雄は、爽やかで明るく無邪気ないい奴系ヤンキーで、まさに髙橋ヒロシ漫画における典型的な強キャラの設定である。

演じるのは「THE RAMPAGE from EXILE TRIBE」の川村壱馬くん。

このひと、めちゃくちゃ演技が上手くてびっくりした。

 

そんな彼が鬼邪高全日制の不良たちを束ねようと奮闘するわけだが、ライバルキャラの真面目風メガネ男子の轟洋介(演じるのは俳優の前田公輝くん)が超クールでカッコ良くて、俺もう大好き

さらに、この学校には全日制と定時制があり、定時制(つまり年齢的に社会人)に番長がいる。

不動の最強番長、村山良樹(演じるのは山田祐貴)がこれまた飄々としていて、かつ男気もある魅力的なキャラクターなのだ。

 

 

で、髙橋ヒロシ漫画は、強い奴同士がニュータイプみたいにわかり合って友情を育むのがセオリーなので、例によってこの鬼邪高のトップ不良連中はほとんど戦わずして絆を深めていくことになる。

そんな鬼邪高ヤンキーたちと敵対するのが、隣町(かどうかは知らんが)の不良高校「鳳仙学園」の不良たち、通称 “殺し屋軍団” である(ストレートすぎる通り名)

この鳳仙学園の不良たちは、全員スキンヘッドで幹部クラスだけは髪の毛伸ばしてOKという野球部みたいなシステム。

そこの番長でザ・レイド』かってくらい超強い上田佐智雄を演じるのが、なんと俳優の志尊淳くんなのだ。

『半分、青い』のボクテ役や、現在放映中のテレビドラマ『Heaven?』でのナヨナヨとした可愛い系男子の姿が印象的な志尊くんが、ナイフ持ったチンピラを素手でぶちのめすという衝撃シーンが見られるのはハイローだけ!

とにかくこの4人が惚れ惚れするくらいカッコ良く、アクションのセンスも抜群、さらに演技が超達者で、初めて観た俺なんかは感動しきりであった。

 

過去作も観ます

こうして、未知の世界だったハイローシリーズに踏み込んで、あっけなく心を撃ち抜かれてしまった俺。

とにかく敵も味方も全員好きになってしまうくらいキャラクターの魅力が素晴らしいので、シリーズ未見でもなんなくハマれてしまうのだ。

こうなってくると過去作も断然観たい。

今回は『WORST』とのコラボだったこともあり、髙橋ヒロシ漫画に馴染みのある俺にはとても入り込みやすかったのもあるので、これを機に、真のハイローの世界に入ろー!(ダジャレ)

 

すべての思春期に捧ぐ『惡の華』 クソムシ共よ、これが青春だ!

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有名なマンガ原作だということをまったく知らずに鑑賞したが、監督が監督なのでまあ「お察し」というか、ただの青春映画ではないことは予想していた。

しかしながら、煽り文句に“超〈変態〉狂騒劇”などと書かれると俺としては不安しか感じない。

「変態」を売りにしている時点で、それはファッション的かつ商品的な意味合いをはらんでしまうわけで、世間が求める「変態」とホンモノの「変態」は明らかに違うわけじゃん。

一般映画が売りにする「変態」なんてのは圧倒的に前者であり、それはみんなが楽しめる理想の「変態」像に他ならないのではないか?

「変態」は決してポジティブなものではなく、背徳的かつ非道徳的、罪悪感とマイノリティの疎外感などに満ちたネガティブな概念であるべきなのだ。

で、この映画、好きなクラスメイトの女子の体操着のニオイを嗅ぐ主人公「春日くん」を演じるのは伊藤健太郎である。

果たして、彼が女子のブルマをくんかくんかしていたとして、そこに“変態的なおぞましさ”が生まれるだろうか?

 

否である。

 

男から見ても可愛らしい顔をした伊藤健太郎くんがいくらブルマを嗅ごうが、ブルマを履こうが、ブルマを頭に被ろうが、おそらくそこには“爽やかさ”しか漂わない。

そんな「日本一爽やかにブルマを嗅ぐ男」健太郎くんを罵倒し支配する存在、クラス内で生徒にも先生にも嫌われ孤立した異端女子「仲村さん」の役が、これまた日本人離れした美しさを持つ玉城ティナ嬢だ。

 

画的に美しすぎるこの2人の絡みの、いったいどこに変態的要素を見出せばいいんだ! イイカゲンにしろ!

 

などと、1ミリでもこんな面倒なことを思った俺みたいな人間にこそ観てもらいたいのがこの映画である。

 

惡の華』は、決して「変態」を描く映画などではなく、もちろん「一風変わった若者の色恋沙汰」を描く映画でもない。

この作品は「青春」の残酷さ、生きづらさ、ドス黒さ、危うさ、絶望感や閉鎖感を、とんでもない破天荒な方向性で表現した圧巻の青春地獄絵巻なのである。

主人公が伊藤健太郎玉城ティナという美男美女であることは、この作品における唯一の救い、作り手による鑑賞者への慈悲でしかない。

これがもしブスな男女で描かれたら、誰一人として鑑賞に耐えられないし、あまりの地獄に上映中ショック死、あるいは自殺してしまう人も続出するであろう。

 

 

 

Mすぎてエモすぎる井口ワールド

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惡の華』は、クラスのアイドル「佐伯さん」(秋田汐梨)に恋する春日くんが、放課後に誰もいない教室で彼女の体操着を思わず盗んでしまい、その様子を仲村さんに目撃されて弱みを握られてしまうことから始まる。

仲村さんに「バラされたくないなら契約しよう」と持ち掛けられて無茶な要求(彼らにとっての変態行為)に応える春日くんが、じょじょにM性を開花させていくシーンは本当に素晴らしい。

日本映画界の国宝級マゾ男、井口昇監督の最新作に相応しい、というか水を得た魚のような堂々たるM男覚醒演出は監督の面目躍如といったところである。

井口監督と言えば、デビュー作の短編映画『わびしゃび』が、学生時代の監督自身が後輩の女の子に告白するまでの葛藤を8ミリで記録した壮絶なドキュメンタリーだった。

今思い起こすと、『惡の華』の春日くんと『わびしゃび』において恋に悩む井口監督との姿が重なる部分があり、またそれが学生時代の俺自身の悶々とした日々にも重なったりして、要するに圧倒的にエモいのだ。

井口監督が、このマンガを読んで「俺はこれを映画化するために映画監督になったのではないか」などと神の啓示を受けた理由がよくわかる。

『わびしゃび』で描かれた孤独な片思い同様に、『惡の華』もある意味その歪みゆえに成就しない片思いの物語である。

春日くん、いや『惡の華』の悩める主要キャラ3人全員が“あの頃の井口監督”そのものであり、きっと井口監督は3人のことを誰よりも理解できたのだろう(ヘタすりゃ作者よりも)

 

 

 変態は自分の中にある

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まるで自分の青春時代を見ているかのようにリアルな青春地獄。

もちろん俺は、実際に女子のブルマを盗んだりしたわけではないが(本当にしてない。お願いだから信じて)、憧れの女子の体操着姿を見て悶々とする主人公の気持ちなんか痛いほどわかるし、思春期の絶望的な気持ちを本や映画に逃避することでやり過ごしたり、「俺は他の人とは違う」と信じることで孤独の拠り所としたりと、劇中のあらゆるシークエンスが心当たりありまくりで困る。

とにかく大人たちやその社会がものすごく汚らわしい世界に見えて、さらにそういった世界へと何の疑問もなく足を踏み入れようとする同世代たちを蔑んだ目で見てしまう感じ、まさに「青春」だよね。

 

他の人と違う=「変態」でありたい。

自身のアイデンティティの欠落を「変態」という逃げ道で補完しようとする主人公は、いっそ「変態」であれば苦しまずにいられると思い、その異世界の扉を開けようと四苦八苦するわけだが、結局のところアイデンティティってのは他者との交流において確立するものだ。

春日くんも仲村さんも、孤独ゆえに自己像を認識できずにいたわけで、そんな歪んだ2人が関わりを持つことで、事態はより一層に歪みまくり、さらに佐伯さんをも巻き込んで混沌へと突き進む。

このへんのモヤモヤ感というか、もっとシンプルに生きればいいのにそうはいかない複雑な心境が見事に表現されていて、心当たりありまくりの俺にとっては恥ずかしくてたまらないのだ。

もうすっかりと忘れていた中学生時代の黒歴史を紐解かれたみたいに、羞恥心を大いに刺激される物語である。

「変態は自分の心の中にある」

劇中こんなセリフが飛び出す(たぶん)

「変態」は「愛」と同じでカタチなど無い。

見た目や行動などの表面的なモノではなく、「変態」は一種の概念として心のずっと奥に隠されているべきもので、他人にこれ見よがしにアピールするものではないのだ。

 

 

とにかく女の子がギネス級にカワイイ

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心が痛くなるほど切なくて、気が狂わんばかりにエモいこの作品。

原作における世間の評判には「胸糞」というワードも上がっているが、映画版に関してその感覚は皆無である。

 

なぜなら出演者がとことん美しいからだ。

 

伊藤健太郎玉城ティナという透明感を絵に描いたような存在に加え、佐伯さん役の秋田汐梨のアイドル然としたキュートさには春日くんでなくとも心が射ち抜かれてしまう。

しかもブルマ姿がマジで今世紀最高にエロいので、鑑賞後に思わずブルセラショップに立ち寄ってしまいそうになったほどだ。

井口監督の目線ともいうべきカメラアングルのエロさは異常で、映画じゃなきゃ完全に犯罪!(当たり前)

さらに高校時代の春日くんと恋をする常盤さん役の飯豊まりえがまた凄い。というか存在がエロい。経験済み感がたまらない。

そもそも「飯豊まりえ」という名前の字面がエロい、「豊」という漢字&「ま」というひらがな表記は卑猥すぎて反則!(落ち着け)

 

井口監督の映画を観るといつも思うが、女の子の撮り方が異常にウマい。

清純さの中にしっかりとエロさを醸し出す魅せ方に、観ているこっちが罪悪感を抱いてしまうほどである。

つまりこの映画、目線が完全に思春期のソレ。

誰もが青春時代にタイムスリップして地獄ライドできる、究極の青春映画なのであった。ほげ。

 

 

 

惡の華
9.27全国青春ロードショー!

 

 

 

 

 

自分が襲ってくる! ドッペルゲンガースリラー『Us/アス』の予測不可能展開に悶絶しろ!

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「自分そっくりの容姿をしたもうひとりの邪悪な自分に襲われる」というシチュエーションはホラー映画によくある題材だが、この映画はなんと自分だけでなく、自分の家族そっくりの「わたしたち」に襲われるというブッ飛んだ展開がヤバイ。

邪悪な自分ひとりくらいならまだ気楽だが(逃げやすいという意味で)、家族一緒にともなるとちょっと大変。

 

邪悪な夫、邪悪な嫁、邪悪な娘、邪悪な息子、なにこれ地獄じゃん。

 

幸せに暮らしていた平凡な家族に、何の前触れもなく襲い掛かる「ニセモノの家族」の恐怖。

いや、実は「前触れ」は遠い昔にあった。

この映画の核となるのは、その「前触れ」の部分なのだ。

突如現れたニセモノはいったい何なのか? その目的は? 

 

スリリングで謎に満ちた理不尽かつ理解不能な恐怖を、時にユーモアを交えながら軽快に描くのは、傑作スリラーゲット・アウト(2017)でアカデミー脚本賞を受賞したジョーダン・ピール監督である。

不吉なことが起こりつつある違和感、降りかかる意味不明な災難、そして冗談としか思えないような驚きの真相解明と、大胆でありながらも冷静沈着な脚本&演出が特徴。

今回も『ゲット・アウト』同様に、一見してどんな映画なのかが見えにくい、最後までその全貌を予測できない作品となっている。

つまり、『Us/アス』におけるドッペル家族の襲来にはもちろん大きな“意味”がある。

その“意味”がわかるのは物語の超終盤であり、観客はラストのラストで、残暑などなかったかのように死ぬほど背筋を寒くするという寸法だ。

 

 

 ドッペルゲンガーの恐怖とは?

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「この世の中には自分そっくりの存在が3人いる」といった話を子供時代に聞いたことがある。

当時は、自分のそっくりさんがどこかにいるというファンタジックな話に素直にワクワクしていたが、いま考えると絶対に会いたくないなと思える。

自分と瓜二つの顔を持つ他人と遭遇するなんて恐怖でしかない。

ドイツ語で「分身」を表すドッペルゲンガーという現象は、自分が「もう一人の自分」を目撃してしまうことで、それは自身の死の前兆を意味するとして恐れられている。

つまり、ドッペルゲンガーを見てしまった者は近日中に絶賛死亡確定というわけである。

ニセモノがホンモノを殺し、なり替わってホンモノとして生き続けるという説もあれば、単純に「自分」を見てしまったショックから精神に異常をきたして死を迎えるという説もあるそうだ。

ドッペルゲンガーは不吉な概念であり、モンスターや幽霊に匹敵するほど人間にとっての恐怖の対象なのだ。

 

ではなぜ「自分」がこれほど怖いのだろうか?

対峙する「もうひとりの自分」が、自分とは正反対の人間であることへの恐怖か、あるいは自分自身が社会生活で隠している“本性”の具現化であることへの恐怖か。

相手が「自分」だからこそ、思考や行動もまた「自分」と同じですべて読まれてしまうという恐怖もあるかもしれない。

とにかく、自分自身がいちばん理解しているはずの「自分」が、理解できない存在として目の前に現れる恐怖こそがドッペルゲンガーの恐ろしさなのだろう。

ジョーダン・ピール監督は、史上もっとも恐ろしい物語を創る上でそこに着目したのだ。

この着眼点、そしてドッペルゲンガーをきっかけに広がる、アメリカの社会における貧困や格差への問題提起とも言える壮大な展開に驚愕を隠せない。

敵は自分であり「わたしたち」、つまり社会なのだ。

 

 

 

まとめ

 

自分にそっくりの人間は存在する。

それは科学的にも立証されており、もともと人間の顔の特徴を決める遺伝子の数は限られているということなので当然と言えば当然の話だ。

しかし、ドッペルゲンガーは単なる「そっくりさん」ではない。

「自分そのもの」であるというところに救いがたい絶望と恐怖がある。

さらに『Us/アス』は決して怖いだけの映画ではない。

混乱の中に描かれる人間の強さや滑稽さ、テンポ良く進むスリル満点なサバイバル展開、ホラーエンターテイメントとしての完成度の高さに誰もが驚くだろう。

 

 

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100点満点!

 

 

 

殺し屋冒険ファンタジー『ジョン・ウィック:パラベラム』はシリーズ最高のキチガイ指数を更新!

ワンちゃんを殺された最強の殺し屋のクレイジーな大冒険を描いたジョン・ウィックシリーズ3作目は、ストーリーがムチャクチャすぎて全く理解できないが、そんなものは関係ないほどに面白い出来事がたくさん起こるのでもうそれでいいんだと思う。

とにかく物語は大筋で「なんとなくこんな感じ」といった程度になっていて、あとはジョン・ウィックさんが街に異常にたくさんいる殺し屋たちに襲われるだけ。

もはやこの世界には殺し屋しかいないのだろうか? と思わんばかりにそこら中に殺し屋さんたちが営みをしていて、当然のように「寿司屋」とか「ルンペン」とか「警察官」とか、仮の仕事をしてはいるけど、ここまで競合が多いともう殺し屋としてやってくのが大変だから副業して他の仕事やってんのかもしれない。いや副業で「ルンペン」はねーだろさすがに。

 

たしかジョン・ウィックさんは、1作目で愛犬を殺されて愛車を盗まれて、結構ひどい目に合ったからしょうがなく復讐に乗り出したはずだったが、2作目ではもうどう考えても「自分から過酷な環境に身を置こうとしているとしか思えない」ような自虐的判断ばかりして、引退とか平穏とかいったいどの口が言ってんだよ状態でもう笑うしかない。

 

ジョン・ウィック、何がしたいんだ!

 

そんな単純かつ素朴な疑問を打ち砕くシリーズ3作目「パラベラム」、その意味はラテン語のことわざ【平和を望むなら闘いに備えよ】ということで、結局ジョン・ウィックお前はやっぱりなんだかんだで安らぎを求めていたんだね、だからこそ再び殺し合いに身を投じたのか。ふむ。納得(無理矢理に)

 

平和、平和、平和、、、などとつぶやきながらも次々と刺客を残虐にブチ殺すジョン・ウィック

「悲しいけどこれ戦争なのよね」

スレッガー中尉さながらの悟りをその髭面にたたえつつ、殺し屋業界を追放されてひとり敵だらけの街をさまようのであった。



シリーズ最大の死人数を更新!

 

ジョン・ウィック最新作は、本作一本で『13日の金曜日』シリーズ全作品におけるジェイソンの殺人数をブチ超えたのではないかと思うほどの殺戮大合戦となっている。

業界を追放されたジョン・ウィックにはとんでもない賞金がかけられ、一攫千金を狙う大勢の殺し屋に命を狙われることになるのだが、そんな奴らがことごとく返り討ちにされるので死体の山は必至。

しかも最強&不死身なジョン・ウィックは、どんな状況だろうが周囲に転がっているモノを利用して人を殺害できるので、もはや拳銃なんか使わずに行き当たりばったりで敵を殺すのだ。

つまり、殺傷能力が低めの方法で強引にトドメを刺されるので、そりゃあもう悲惨な死に方をする人が続出。

殺されるのは「悪い殺し屋さん」たちなので、まあ因果応報だし、それはそれでスカっとしてしまうから本当に困る。

さらに今回ジョン・ウィックは、犬や馬や美女(まさかのハル・ベリー)などの生き物をも巧みに使って戦うので、そのへんの殺戮チームワークなんかも見どころだ。

業界全体を敵に回したジョン・ウィックが、彼を支援する人たちも巻き込んで、行く先々で展開する楽しすぎる大虐殺(推定死者数5億人)を堪能できるぞ。

 

 

 

ストーリーが意味わからない

 

 

ジョン・ウィックの世界観はかなり独特である。

 

まず殺し屋、多すぎ。

犬、賢すぎ。

ホテル、一般人いなすぎ。

警察、仕事しなすぎ。

業務機材、アナログすぎ。

 

まさにファンタジーのような世界で、そこに課せられた現実離れしたルールに基づいた物語が展開する。

裏社会の支配者、殺し屋の掟、血の誓印。

劇中に突如出てくるこの世界の社会システムを、われわれ観客は初耳なので「なるほど、そんなものなのか」という気持ちで受け入れながら鑑賞するわけだが、当然すべて「なんとなく」しか理解できない。

よって、たまにジョン・ウィック、何やってんだろ」という気持ちがアタマをもたげてくるのである。

しかし、そういった疑問が心の奥底に引っ掛かりつつも、面白すぎるアクション&バイオレンスが深く考えることを拒絶する。

 

そもそもジョン・ウィックという人の行動そのものも意図がまったく見えてこない事が多い。

殺し屋を辞めたいのに、わざわざ刺客を送り込まれるようなことばかりして、毎度わざわざ窮地に陥ってみたりするジョン・ウィック

街中に同業者がたくさんいることを知りつつも、わざわざ賞金首になるようなことを選択するジョン・ウィック

わざわざ殺し屋たちのターゲットになったくせに、襲われると困り顔、もしくはうんざり顔で対応に追われるジョン・ウィック

ジョン・ウィックのピンチはすべて「わざわざやってる」と思わせるピンチばかりでまーったく理解できないのである。

 

“ピンチ依存症”

 

生きるか死ぬかの世界において、そんなアホな依存症があっていいのだろうか?

いいのである。

だってジョン・ウィックなんだもん。

つまりこの映画、現実離れしてブッ飛んだすべての展開が“ピンチ依存症”で説明できてしまうので驚き。

 


バカが喜ぶキャスティング

なんてったってキャストが凄い。

ライバル関係となる組織の凄腕殺し屋はなんとマーク・ダカスコス扮する日本人の忍び。

そんな実写版クライングフリーマンの部下として登場するのが、シラット使いのお馴染みすぎる2人組である。

 

もはやハリウッドのアクションクリエイターたちにとって『ザ・レイド』は聖典なのだろうか。

 

特にヤヤン・ルヒヤンはどんな映画でもまったく同じ役柄で現れるのでマジ恐ろしすぎる。

ほかにも、『マトリックス』の続編のウワサが囁かれる中でのモーフィアスとの共演(これまた似たような絵ズラ)があり、年を重ねるごとにセクシーに磨きがかかるハル・ベリー嬢も参戦しムチャクチャ殺しまくる。

 

そんなクセのある出演者たちに囲まれてご満悦の主演キアヌ・リーブス

映画好きにたまらないマニアックなキャスティングがこの作品の大きな魅力なのである。

 

まとめ

全世界を敵に回したジョン・ウィックの運命がいかに?

いやいや、みんな知っていると思うけど、全世界の殺し屋が全員勢ぞろいしてもジョン・ウィックには勝てない。

俺たちは、このシリーズでジョン・ウィックの神話を目撃する、歴史の証人なのだ。

当然4作目も5作目も作られるだろうから、寅さんのように毎年作ってご長寿シリーズになって欲しいジョン・ウィック

マトリックス』なんかいいから、ずっとコレやっててくれキアヌ。

今年ベスト確実の大傑作『ロケットマン』、音楽好きはもう死んでも観なきゃダメ!

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音楽好きならば、所持しているCDをすべてブックオフに売っぱらってでも観なきゃいけない映画ロケットマンは、エルトン・ジョンのド壮絶な半生を描いた、愛と呪いの超絶ミュージカルである。

そう、とにかくこの作品は「呪い」に満ちている。

あの類まれなる「音楽の才能」を得る代償として、エルトン・ジョンは「愛にめぐまれない」呪いにかけられたのではないか? と思うほど、幼少時代から見事に呪われまくっているのである。

両親からの愛を受けたくてもそれが叶わない現状、それを打破するべくのめりこんだ音楽の世界で、ご存知のとおりに彼は大成功を納めるが、結局どう頑張ったところで両親には愛されない。

 

なんという哀しい物語だろうか(しかも実話)

なのにこの映画は、そんな発狂レベルに可哀想な物語を、ノーテンキなポップミュージックで歌い踊り飛ばすのだ。

ミュージカル映画と言えば、もともと派手でテンションの高い作風なのが常識だが、『ロケットマン』は通常の3倍の派手さ&テンションで襲ってくる。

 

なぜならエルトン・ジョンは衣装がバリ派手、愛に飢えているためか精神が常に躁状態

 

オープニングから、常人だったら羞恥プレイ過ぎて死にたくなってしまうほどの激ヤバ衣裳で堂々登場するエルトン役のタロン・エガートンに悶絶&ショックを受けるほど、アタマからシッポまでたっぷりとド派手が詰まっている。

とにかくタロン君がとんでもなく巧い。

イケメンなのに、どことなく醸し出すイモ感、神経質感、変態感、さらにカリスマを感じさせるオーラをも身にまとい、当初は吹き替えで済ませる予定だったというライブシーンも、すべて自身で歌い上げたというからオドロキ。

 

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似てないが似てる

 

タロン君はエルトン・ジョンとして違和感のない超絶歌唱テクを披露している。

こういったミュージカル映画は、普段見慣れた俳優たちのまさかの歌唱力に驚くことが多々あるが、今回のタロン君はレベルが違う。

なんてったって、世界的スーパーアーティストの名を名乗ってのパフォーマンスだからである。

「結構巧いよね」程度の歌唱力では務まらない。

製作総指揮であるエルトン・ジョン本人が納得するだけの歌唱力&表現力を、しっかりと持ち合わせているのである。

 

ライブシーンの迫力あるパフォーマンスが見事なのは言うまでもないが、実は作曲シーンやレコーディングシーンといった派手な演出のない演奏シーンでこそ、タロン君の魅力が爆発する。

特に名曲「Your Song」誕生の瞬間は鳥肌モノのシークエンスであった。

 

 

 

エルトン・ジョン、愛と言う名の呪い

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素晴らしい音楽を生み出す天才でありながら、絶望的に愛に飢えていたエルトン・ジョンの孤独を想うと、いままで聴き慣れていた多くのヒットソングたちへの印象もまた変わってくる。

ハッピーな曲は切なく、切ない曲はさらなる哀愁で心に伸し掛かってくるではないか。

 

ロケットマン』の物語は、ひとりの天才の「愛」をめぐる生々しい半生を描いている。

自分を愛してくれる人を探し求め、ゆえに自分自身をも愛せずに過ごした日々。

きっとエルトン・ジョンは、そういった理不尽な仕打ちをした周囲(特に両親)に対する不満と恨みをいまだに持ち続けている。

製作総指揮として作品制作に参加し、自分を愛してくれなかった両親に遠回しに復讐しているのではないか? と思わずにはいられない演出が散りばめられていることからも、それは明らかだ。

親が我が子に無関心であるという状況など俺にはまったく理解できないが、エルトン・ジョンのその苦しみは痛いほど伝わってきて、鑑賞後にすぐに帰宅し我が子を抱きしめてやりたい衝動にかられたほどだ。

さらに、恋人兼マネージャーとの泥沼の恋愛事情やドラッグに逃避するスターゆえの孤独も濃厚に描かれている。

栄光と絶望、ショービズ界の裏側と混乱、劇中に展開する豪華絢爛な地獄絵図を見ていて、思わずクイーンの軌跡を描いたヒット作ボヘミアン・ラプソディとの類似点を多く見つけてしまったが、後から調べたらなんとまさにその『ボヘミアン・ラプソディ』の監督が手掛けた作品であった。

天才を見つめる視点、リアルな人生をファンタジックに描く演出、ライブシーンのカタルシス、そしてアーティストへの大いなるリスペクト。

哀しくも壮絶なエルトン・ジョンの人生が大迫力のエンターテインメントとして再現された、まさに実録音楽映画のお手本みたいな作品であった。

 

 

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音楽映画の最高峰!

 

100点満点!