ローデッド式デヴォンクラッチ

映画ファン最後の良心デヴォン山岡が映画を楽しみまくって感想を書きます。

これがウチらの戦争だ。号泣映画『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』

 

戦争に翻弄される一般市民のみなさんが必死で日々を生き抜く姿を描いた映画。

などと言われると俺なんかは「そんな悲惨なものを好き好んで観たくはない」という気持ちにならざるを得ないというか、特に原子爆弾投下前後のヒロシマ周辺のカオスを描いていると聞いたら気分はさらに落ち込む。

そういった理由で、かの超有名アニメ作品『火垂るの墓』だって観ていないし、漫画『はだしのゲン』なんかも超絶トラウマハードコア地獄絵巻として俺の中でのZ指定認定作品となっている。

戦争が悲惨なものであることはわかっているし、なんで娯楽たる “映画” というエンターテインメントでそれを改めて教えられなきゃいけないのだろうか。

戦争映画は、ノー天気な『パール・ハーバー』とか狂気じみた『戦争のはらわた』とか観てゲラゲラ笑って楽しむもんじゃないのかと。

 

2016年に公開し大ヒットした『この世界の片隅に』も、当然のように誰がどんだけ褒めちぎろうがひたすら無視を決め込んでまったく鑑賞する気はなかったのだが、なんの因果か今回この作品の再編集バージョン『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』の試写会の案内が俺のもとに届いたのだ。

評判はさんざん聞いていたし、ただ悲惨なだけの物語ではないことも知っていた。

じゃあ、このタイミングに “体験” としてこの作品を観てみるのもいいか、なんて覚悟を決めて、まずはオリジナル版『この世界の片隅に』をAmazonプライムで鑑賞。

 

泣いた。

 

むちゃくちゃ泣いた。

 

戦争は兵士たちが殺し合うだけではない。

市民たちにとっては、壊れていく日常の中で必死に生活しつづけていくことが戦争なのだ。

 

「何でも使って暮し続けるのが、ウチらの戦いですけん」

 

悲しくもたくましいこんなセリフもあれば、毎日何度も空襲に合い、周囲に鳴り響く空襲警報に対して

 

「警報、もう飽きた!」

 

などと愚痴り、うんざりしながら防空壕へと避難するユーモラスなシーンがあったりする。

恐怖を通り越して、もはや空襲に “慣れ” を感じてしまっている日常がより一層恐ろしいではないか。

戦時中の日常のリアリズムがこういった些細なセリフに現れている。

 

空襲が続き、家族が死地に送り出され、配給の食べ物もわずかという絶望的な状況でも、人間は嘆いてばかりではなく、一生懸命にその日を生き抜いて、時にはユーモアのあるやり取りもしている。

どんな時でも人々は生活をし続ける。

絶対にタダでは死なないし、そう簡単には絶望しない。

生きることの壮絶さというか、人間らしさを失わない登場人物たちの “しぶとさ” に感動してしまった。

 

そして、なによりも主人公すずを演じる声優「のん」の、ボンヤリとした天然ボイスが過酷な環境の緊張感を和らげてくれる。

この作品の世界観に救いが溢れているのは、のん演じるすずのキャラクターパワーのおかげだろう。

 

しかしだ。

そんな素朴な価値観とおっとりとした性格のすずだからこそ、日本の戦争敗北の際に悔しそうに嘆く姿がまた凄まじいのだ。

 

「なにも考えんボーっとしたウチのまま死にたかった・・・」

 

戦時中も比較的ノーテンキだったすずに、ここまで言わせてしまう戦争の恐ろしさ、悲しさがより一層身に染みた。

 

というわけで、何が言いたいかというとこの世界の片隅に』は、大ヒット・大評判にふさわしい傑作アニメであった

3年越しでそれに気づいた自分自身のダメっぷりに愕然とするが、たとえ今更だろうがそれに気付けたことが喜ばしい。

 

そして今回、129分のオリジナル版にプラス40分の新たなエピソードを加えたディレクターズカットともいうべき完全版が公開となった。

その名も『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』。

(さらにいくつもの)とは、まさにオリジナル版では語られなかった小ネタ、しかしすずの物語をさらに深く掘り下げ、ほかの登場人物たちの人生に少しだけフォーカスしたような物語が追加されているのだ。

結果的に、物語はより一層の哀しみをまとうことになる。

オリジナルだけ観て感じていた印象が、またガラッと変わってしまうわけだが、これが吉と出るか凶と出るか?

人によっては “知りたくなかった事実” を知ることにもなるかもしれないところが、この物語の世界観の濃厚さであり魅力でもあるのだ。

 


結果的に、前作よりも「泣いた」

 

すずが出会う人々には、前作で語られなかった “秘密” があった。

それは別に隠されていたわけではなく、単純にオリジナル版の映画化において割愛されたエピソードだった。故に原作を知っている人には周知の事実だったのであろう。

しかし、映画だけを観ていた俺にとっては初耳で衝撃の事実が突き付けられる。

 

すずが出会った遊郭の女「白木りん」の存在がまさにそれである。

オリジナル版では、呉の町で偶然に出会って仲良くなる同世代の美しい女性という印象で終わっていたが、そんな彼女が実はすずにとってとんでもなく大きな存在だったということが明かされる。

このエピソードを知ってしまうと、俺たち鑑賞者のすずに対する観方がまた変わってきてしまう。

 

りん「誰でも、この世界で、そうそう居場所はなくなりゃせんよ」

 

このセリフがさらなる重量感をもって背中にのしかかってくる。

もはや戦争映画ではない。

大人の恋愛ドラマの様相も見せる追加エピソードの破壊力にめまいがしそうになった。

 

こういった、新たな(さらにいくつもの)ドラマが加わった物語は、すずの周囲の世界により一層の色彩を与え、そこから得られる感動が無限に広がる。

もはや「すず」だけの物語ではなく、「それぞれのあの時代を生きた人々」の壮大なる群像劇となるのだ。

 

すず「この街では、みんな誰かを亡くし、探している」

 

まとめ

壮絶な環境で健気に生きる人々の物語。

しかし、そこには絶望ではなく希望が漂う。

辛い時、悲しい時に、人々はこの映画のことを思い出せばいい。

どんなときだって、人間は人間らしく生きられるということを思い出して、それをパワーに変えて欲しい。

 

ありがとう。この世界の片隅に、ウチを見つけてくれて。

 

この作品、全編が美しいセリフで溢れている。

 

最高だ。

40年後のダニーくん、まさかのオーバールックホテル再訪! 『ドクター・スリープ』

 

オーバールックホテルの不気味な廊下を三輪車で縦横無尽に漕ぎ進んでいた可愛いダニーくんも、見事にやさぐれた大人に変貌。

髭モジャのオビ・ワン・ケノービ然としたアル中男と化しているところは、父親であるジャック・トランスの血統を感じさせるショッキングな未来である。

 

ダニー、お前もか(アル中)

 

しかし天性の能力である「輝き(シャイニング)」はいまだ健在。

というか、道を踏み外そうとすると、例のホテル事件からの師であるハローランの幽霊になんとか助けられ、これまで人生を台無しにせずに済んできたようだ。

 

例のホテル事件を生き残って40年後。あの頃の面影ゼロの、夢も希望もやる気も無くただ無気力な人生を送っているダニー君。

ここから何が起こるのかというと、予想の斜め上を行くとんでもないことが起こる。

いや、ダニーくんは巻き込まれる形で命がけの殺し合いに身を投じることになるのだ。

 

1作目の幽霊屋敷ストーリーから一転し、まさかのサイキックバトルホラーへと姿を変えた圧巻の続編。

オーバールックホテル関係ないところで再び刻まれる「REDRUM」の文字。

まるで『スターウォーズ』かのように、オビワン化してゆくダニーくん。

 

つまりこの作品、キューブリック版『シャイニング』の続編のふりをして、実は原作版『シャイニング』の続編となっている。

と言いつつ、キャラクターやヴィジュアル設定はキューブリック版を踏襲しているし、生垣の迷路も登場する。

 

凄い。

キューブリック版と原作版を見事に融合して続編を作っているのだ。

 

とんでもない芸当である。

監督のマイク・フラナガンという人、キング作品への理解が深いのか、キャラの描き方が丁寧だし、表現に容赦がない。さらにサイキックシーンに異様な迫力がある。

キングはホラー作家だが、実は超能力モノこそが得意分野である。

デビュー作の『キャリー』をはじめ、『デッド・ゾーン』、『ファイアスターター』、『グリーンマイル』などなど、孤独な能力者を描いた数多くの作品があり、『シャイニング』もそのひとつなのだ。

しかしキューブリックの映画は、ダニーくんの「輝き(シャイニング)」やもう一人の超能力者ハローランの存在に重きを置かずに、ジャック・ニコルソン演じるジャック・トランスが悶々として発狂するサイコホラー的要素を全面に押し出していた。

よって、映画版しか観ていない人には「なんで急にこんな続編になるの?」という印象になるかもしれないが、原作ファンからするともう問答無用の合格点。

『ドクター・スリープ』はなるべくしてこうなった最強の続編なのである。

 

オーバールックは静かにその時を待つ

 

『シャイニング』の続編映画と聞いてまず思ったのが、え? どっちの『シャイニング』? という疑問である。

 

一般的に『シャイニング』といえば1980年に制作されたスタンリー・キューブリック監督の映画をイメージするが、原作であるスティーブン・キングによる小説とは似て非なる存在として語り継がれているからだ。

映画的に大ヒットしホラーの金字塔となったキューブリック版『シャイニング』。

モダンホラーの帝王スティーブン・キングによる原作版『シャイニング』。

ベースとなる物語は同じだが、その捉え方、恐怖の質、根底に流れる精神がまるで違う。

なぜなら、キューブリック神の存在をいっさい信じない男

オーバールックホテルの幽霊は超自然的かつ人知を超えた邪悪な存在ゆえに、キューブリックにとっては現実に存在しないモノなのである。

幽霊を心底怖がっているキングが作った『シャイニング』と、幽霊を信じないキューブリックが作る『シャイニング』。

2人の根本的な違いはまさにその精神なのだ。

 

あるインタビューでキングはこう言った。

 

キューブリックのような懐疑主義者にはオーバールックホテルの純然たる非人間的な悪を理解することはできない」

 

しかしだ。

原作者たるキング御大は認めていなくても、俺にとってのキューブリック版『シャイニング』はかけがえのない人生の一本である。

計算されつくされたカメラワークと美術センスによる完璧な世界観は、シンメトリーにこだわるあまりヴィジュアルが整いすぎていて、逆に超自然的かつ禍々しいインパクトで脳裏にトラウマとして残り続けている。

また、映画開始早々からもはや怖いジャック・トランスの顔と、クライマックスで脅える姿が無駄に怖いウェンディの顔

さらに、キング御大もさすがに褒めたという「生垣の迷路」のアイデアの斬新さ。

原作とは別モノとして、ホラー映画としての魅力にあふれた最高の作品である。

それにキューブリックの残したオーバールックホテルのヴィジュアルがあるからこそ、『ドクター・スリープ』は超大作としての貫禄とスケール感を容易く手に入れられたと言ってもいいだろう。

 

続編は、ホテル事件が過去となった40年後を描いてはいるが、もちろんオーバールックホテルは登場する。

エモさすら漂うホテルの佇まい、館内の廊下、エントランス、バーカウンター、237号室(原作では217号室)。

ダニーくん40年ぶりの再訪に、まるで上京した息子がやっと故郷に帰って来たかのような微笑ましさを感じてしまったのは俺だけじゃないであろう。

 

 

シャイニングを喰らう者

 

続編とはいえ、オーバールックの問題はすでに解決済み。

『ドクター・スリープ』は、それとまるで関係ないところから事件が始まる。

なぜダニーくんにも飛び火するのかというと、そこに「輝き(シャイニング」の能力が関わっているからだ。

人間の生気を食らう吸血鬼みたいな集団が存在し、生命力の強い子供たち、つまりシャイニングを持つ当時のダニーくんのような存在を喰らって生き続けているやつらがいるのであった。

人知れず行方不明になる子供たち。この流れは『IT/イット』にも近いので、まさにキングらしい物語である。

 

この悪い奴らをなんとかして止めなければってことで、シャイニングの先人としてのダニーくんが、弟子である才能豊かなパダワンと共にそいつらと対峙する。

しかもサイコキネシス幽体離脱的な念動力を駆使して敵をあぶりだしていくわりに、いざというときは普通に銃撃戦で殺し合ったりするのもショッキングで素晴らしかった。

ホラーの怖さよりも、殺し合いの陰惨さが常に漂っている緊張感あふれる展開がたまらないのだ。

 

 まとめ

最後にキャストだが、ダニーくん役のユアン・マクレガーはもちろん良かったが、セクシーなバケモノ「ローズ・ザ・ハット」役のレベッカ・ファーガソンの色気がたまらなかった。

さらに、40年前の再現シーンで登場するジャックとウェンディが、似せようとしているのかどうかがわからないほど微妙なヴィジュアルであった。

子供時代のダニーくんはかなり似ていたが(ハローランは本人←嘘)

 

とにかく、キングのおぞましい原作とキューブリックの完璧な映像、まったく別モノだった2つの芸術を見事融合させた素晴らしい続編であった。

長年、キングとキューブリックの『シャイニング』をめぐるバトルに付き合わされてきたファンも納得の出来。

 

あえて台風シーズンに観たら怖さ100倍の『クロール -凶暴領域-』でワニさんの生態を学ぼう!

サメ、ワニ、ライオン、グリズリー、アナコンダ、怪獣、自らを頂点捕食者と勘違いした人間たちを、いともあっさりと食いちぎってゴックンしてしまう食物連鎖のトップを突っ走るみなさん。

そんな捕食者たちに襲われた俺たち人間にできることは、おとなしく彼らの腹の中で消化されることのみ。

この無力感が、文明社会での理性的な生活に疲弊した人間たちが深層心理で求めている密かな願望であり、それこそが俺たちが動物パニック映画を好む大きな理由に違いない。

 

巨大ワニさんに食われてみたいな

 

そんな俺たちの儚い望みを叶えるべく制作されたのが、この「民家に平然とドデカいワニがいて襲われる」という大胆かつクレイジーな設定のワニさん映画『クロール -凶暴領域-』なのであった。

 

まるで住宅地にワニさんがいるのは当然とばかりに、普通にいます。ワニさん。

「舞台となるフロリダ州は熱帯気候で水辺も多いからワニさんがそこらじゅうにいるんですよー」などという言い訳じみたアナウンスがあるものの、出てくるのは全長3mはあるかという巨大アリゲーターである。

そんなもんが、たとえ田舎町とはいえ人間の生活する住宅地に何匹も出没したら、お前そんなとこ土地も家も価値ダダ下がりだろうが。などと目くじらを立てるのは無粋である。

出ちゃったんだからしょうがない。

というわけで、主人公の女の子が入り込んだ元実家の床下でアリゲーターに遭遇して、さらにそのタイミングでカテゴリー5のデカすぎるハリケーンが来て、さらにそのタイミングで近所の河川が氾濫して大洪水が起こるという、呪われてるんじゃないかってほどムチャクチャな災難に合うのがこの映画。

ジャングルや水辺に行って襲われるのではなく、慣れ親しんだ家で襲われるという、日常の延長上に凶悪な捕食者の恐怖が訪れる展開が素晴らしい。

しかもハリケーンという大自然の脅威と共にワニさんがやってくるという畳みかけるスリルがたまらない、パニック映画好きにとって至れり尽くせりのアトラクションホラーとなっているのだ。

 


這いずるワニさん、泳ぐお嬢さん

 

とにかくCGで縦横無尽に大暴れするワニさんがヤバい。

地上で這いずりまわる姿もおぞましいが、洪水で屋内が浸水してから機動力の増したワニさんの動きの素早さはとんでもない恐怖である。

水中でスーパーサイヤ人化したワニさんの前では、身動きの遅くなる人間などただの動かぬエサである。

 

リアルに再現されたワニさんの必殺技 “デスロール” は、噛みついた獲物の身体を引きちぎるために、ガブリと咥えたままワニさんがぐるんぐるん回転するという鬼畜の所業。

そんなこんなで、パワーもスピードも殺傷能力もハイスペックなワニさんを相手に、主人公のか弱い女の子はどうサバイバルするのか?

なんとその女の子は、水泳の選手だった! というこれまた凄い展開。

 

タイトルである『クロール』の意味を紐解いてみると、その真意が明らかになる。

 

【crawl】

動詞:這う、腹這い
名詞:クロール泳法

 

 

なんと鮮やかなダブルミーニングではないか。

這いずるワニさんのクロールと水泳選手のクロールがかかっているというオシャレなタイトルの付け方は、さすがフランス人監督の面目躍如といったところ。

ワニ映画なのに、オシャレ感も出している欲張りなパニック映画なのだ。

 

 

 

設定が特殊すぎてキャラに共感などできん

 

パニック映画のセオリーに忠実な流れながら、お約束展開を意図的にハズすというテクニカルな離れ業も見せてくれるのは、監督がホラーに精通したアレクサンドル・アジャだからか、あるいはプロデューサーのサム・ライミのアイデアだろうか。

ホラーを見慣れたコアなファンの予想を裏切るようなシーンが多く、斬新かつ刺激的な展開で結末の予測がつかない。

 

とはいえ、これは純粋なるサバイバルホラーでもあるので、「そんな奴おるかい!」とツッコミ必至の主人公たちのバカすぎる行動も多い。

たとえば前半のワニさん襲撃時に、逃げる途中で主人公がスマホを落としてしまって、それを危険を冒してまで取りに戻るというシークエンス。

運よくワニさんに見つからずにスマホを回収することに成功するのだが、なんとその場でおもむろに電話しようとするのである。

俺なら急いで安全地帯に戻って、身の安全を確保してから電話をかけるが、主人公は何を思ったかワニさんがいつ戻ってくるかわからないその場に留まって電話をかけるのだ。

思わず俺は、映画館の周囲の観客など気にもせずに「うぉい!」と大声でツッコミを入れてしまったほどである。

早く助けを呼びたいのはわかるけど、もっと緊張感を持って行動して欲しいと思うのは俺だけだろうか。

とはいえ、俺は床下でワニに襲われるといった経験が無い身なので、「あなたにワニに襲われる緊張感の何がわかるんですか?」と言われれば返す言葉もないわけだが。


まとめ

ワニさんとハリケーンがダブルで襲ってくる災難に立ち向かうブッとびサバイバル。

間違いなくこの作品はワニ映画というジャンルの中で『クロコダイル・ダンディー』に次ぐ代表作になることは間違いないであろう。

いや『クロコダイル・ダンディー』はラブコメディだった。

都会育ちの美人新聞記者が、ジャングルの沼でむちゃくちゃエロい水着で水浴びしようとしてワニさんに犯されそうになるんだけど、それをクロコダイル・ダンディーが勃起しながら助けるという凄い映画だったなあ。

ワニ映画と言えば、俺の中では『U.M.A レイク・プラシッド』という作品がベストだが、これはコメディ寄りのパニックホラーなので、正統派サバイバルホラーとしての評価は『クロール』に軍配である。

つまりワニ映画最高峰!

 

マンガ実写化の最高峰『シティーハンター THE MOVIE 史上最香のミッション』に死角無し!

人気コミックの実写映画化に成功例など皆無だ。

まったくもって我が国は、なぜダメだとわかっていながらもマンガ実写化映画を作ってしまうのだろうか。

進撃の巨人』実写化! 『キングダム』実写化! 『鋼の錬金術師』実写化! 断っておくがこれらはすべて観ていないが、観てないけど言わせてもらう。

 

クソであると!

 

「観ないで言うな」という意見には全力で反論する。

なんでこんなモノを観なくちゃいけないんだ! ふざけんなコノヤロウ!

 

脚本とか物語とか制作費の問題とかではなく、宣伝用ヴィジュアルから漂う美意識の低さを見ればクソであることが一目瞭然だ。

“実写なのでこのくらいが限界です”と、画作りの時点で初めから投げているような映画ばかりではないか。

原作通りのモノを作る気が無いなら作るなと言いたい。

フランス人が作った実写版『シティーハンター』のヴィジュアルを見ろ!

 

 

 

笑ってしまうほどマンガそのまんまじゃないか! なんなんだこれは! 監督&主演のフィリップ・ラショーさんの正気を疑うぞ俺は!

 

フィリップさんは、小学生のころに見た『シティーハンター』のアニメに感銘を受け、大人になって見たまんまの世界観を映画化したというから驚き。

もはや日本映画界は「マンガ原作の実写化は難しい」などという言い訳はできないだろう。

実際にできているんだから。しかもフランスで。

 

この映画、どこからどう見ても『シティーハンター』である。

主要キャラクターの完成度、展開のバカさ、ギャグの下品さ、締めるところはしっかり締めるシリアスとコメディのバランスの良さ。

少年時代に監督のハートに染み込んだシティーハンターDNAが、これほどまで純粋無垢に原作を再現してしまったことに驚きを隠せない。

マンガ原作の映画化に必要なのは、売れっ子スター俳優でも、優れた脚本でも、大きな製作費でもなく、作品への大きな愛と尊敬なのである。

 


キャラクター完璧すぎ



主人公の冴羽リョウとその相棒のカオリをはじめ、『シティーハンター』の主要登場人物たちが勢ぞろいするこの映画、何が凄いってヴィジュアルの再現度が凄い。

性格やプロフィール等のキャラ設定はもちろん、コスチュームから髪型まですべて再現している。

たとえば、シティーハンターの絶対的ヒロインである「カオリ」は、普段はボーイッシュで男勝りな相棒的存在なのに、ここぞというところでセクシー美女としての本来の姿を見せる。

そのへんの匙加減が絶妙で原作のまんまなのだ。

ちなみにカオリ役の女優、名前がエロディ・フォンタンというだけあって名前の通り本当にエロい。

ライバルの殺し屋「海坊主」、サポートする刑事の「冴子」、かつての相棒でありカオリの兄「槇村」。

原作ファンにとってはお馴染みの主要キャラも完璧な姿で登場。

もはや原作への愛を超えた、病的なまでのこだわりが全編を貫いているのだ。

 

 

 

お色気オゲレツシーン完璧すぎ

シティーハンター』と言えばハードボイルドに見合わないオゲレツな下ネタギャグを連発することで有名だが、そのへんの再現度もマジでR15になりそうなほど完璧。

というよりも、さすがお国柄と言うべきか、セクシーギャグのエロ度は日本よりも高い。

原作がドタバタ寄りの “微笑ましいお色気” だったのに対し、実写版はやっぱ「実写」なだけあって “生々しいエロ” になっているのがヤバイ。

 

パンチラシーンひとつとっても超絶セクシーで、リョウではなく俺たち観客が「もっこり」してしまうという4DX仕様。

 

描写としての「もっこり」は実写で難しいからと、逆に観客を「もっこり」させてしまうという監督の手腕には脱帽である。

 


まとめ

今回の日本公開はアニメでもお馴染みの声優陣を起用した、デラックス吹き替え版である。

リョウが山寺宏一、カオリに沢城みゆき、海坊主に玄田哲章、そして槇村は田中秀幸というヤバすぎるメンツに加え、とんでもない存在感で登場する神谷明に爆笑必死だ。

 

さらに凄いのがエンディング。

これは観てのお楽しみだが、脳があまりのショックで思考停止してしまうほどのエモいラストが待っている。

 

原作ファンは間違いなく必見。

この先、マンガ実写化映画に携わるであろうクリエイターにも必見。

監督のフィリップ・ラショーさん、実は『シティーハンター』のほかにもう一本影響受けたアニメがあり、それはドラゴンボールZとのこと。

 

次回作は決まったようだな。。。

 

身近にいる嫌な奴を容易くお気軽に地獄送り。『地獄少女』はいじめられっこの味方!

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アクセスして名前を入力するだけで、その人間を地獄に送るインターネットサイト【地獄通信】

そんな、何のヒネリもないそのまんまな名称のサイトの管理人の名は、これまた「閻魔あい」というそのまんまな名前の少女であった。

いや別に無理にヒネった名前を付ける必要はないが、そのサイトが「午前0時ちょうどにのみアクセス可能である」という設定も小学生が考えたみたいに安直で逆に不気味だ。

しかもそんなウワサが普通に一般の高校とかで広まっているのも凄い認知度。

闇サイト感ゼロの超ポピュラーな復讐サイトとして市民権を得ているといっても差し支えないであろう。

当然のように、いじめられっこなんかが恨みにかられて気軽にアクセスし、気軽にいじめっこを地獄送りにしたりする。

 

なんという気軽さ。

 

近所のコンビニにでも立ち寄るような気軽さで復讐ができてしまう【地獄通信】、学校や職場で孤立しがち、いじめや悪意のターゲットにされがちなそこの君におすすめだ。

 

とはいえ、安直に依頼可能なぶん、復讐にはそれなりの代償が必要。

それが、≪復讐した者は自らも死んだら地獄に落ちること≫という契約ルールなのである。

ターゲットは即座に地獄へと送られる、しかし、自分もいつか死んだときに地獄少女によって地獄に送られることになる。

つまり死後の自分を代償とする契約なのだ。

嫌な奴が死ねば、とりあえず現状は安泰になるし、自分も寿命で死ぬまでは地獄行きを待ってもらえる。

だったら、なんとなく復讐してもいいかなって気持ちになってもおかしくはない。

いじめなどで死にたいぐらい追い詰められていたらなおさらそう思うはずだ。

気軽に復讐できるシステムは整っているが、それを決意し実行するには覚悟がいるという、シンプルゆえに人間の心の葛藤が伝わりやすい設定になっているのがこの作品の面白さだ。

 

 

玉城ティナの常人ならざる存在感

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依頼があればその日のうちに仕事に取り掛かるストイックな地獄少女閻魔あいちゃんを演じるのは、青春映画の名作と名高い『惡の華』でも地獄の使者みたいな女の子を演じた玉城ティナ嬢である。

最近はキャラ重視の独特な役柄ばかり演じているようなイメージの彼女は、モデル出身とは思えないほど異形の存在感が際立っている。

「いっぺん、死んでみる?」というお馴染みの決めゼリフ(「“殺し”文句」なんてダジャレは恥ずかしくて書けない)も、普通に言われたら笑ってしまいそうであるが、クソムシでも見るような蔑んだ目のティナ嬢に言われると問答無用で心臓が止まりそうだ。

 

しかしこの映画、そんな地獄生まれ地獄育ちのティナ嬢が主役かと思わせて、実はまったく違う。

人気アニメの映画化ということで、当然のようにそんなものは未見な俺は、鑑賞前までこの映画を、閻魔あいちゃんが「地獄少女」であるという正体を隠して学園生活を送り、人知れず事件を【地獄送り】で解決していくような作品だと勝手に想像していた。

復讐版『名探偵コナン』、もしくは女子高生版『必殺仕事人』みたいなやつかと思ったけどぜんぜん違った。

 

なんと閻魔あいちゃんは、依頼者が【地獄通信】にアクセスしたときとターゲットを呪い殺す際にしか出てこない(アニメ見ている人には常識なんだろうけど)。

この映画の主人公は、恨みと悲しみに囚われた女子高生たちなのである。

日常生活で起きる理不尽で無慈悲な出来事に翻弄される善良な女の子たちが、少しづつ闇へと落ちていく過程がスリリングかつ丁寧に描かれ、ついに禁断の「復讐」へと導かれる。

そのとき初めて、地獄とこの世を繋ぐ存在として着物姿の美しき地獄少女ティナ嬢が現れるのだ。

14歳で『ViVi』の最年少専属モデルに選ばれたというその容姿は、まさに地獄のような美しさ。というかエロさ。

そう、ティナ嬢の凄さは、そこに「妖艶さ」が漂っているところ。

その妖しい魅力と神々しさを併せ持つティナ嬢の姿そのものが、絶望した依頼者の覚悟を受け入れる存在としての説得力となっているのだ。

 

 

完璧なるキャラクター創造は白石監督ならでは

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監督の白石晃士と言えば、Jホラー最後の傑作と謳われた『貞子VS伽椰子』でも見せたキャラクターの描き方の巧さが特徴だ。

とにかく登場人物に魅力があり、だからこそドラマ展開に違和感がなく感情移入しやすい。

主人公ともいうべきドラマの中心的存在の女子高生役の森七菜ちゃんが超絶カワイイが、最初は主体性のない地味で素朴な女の子なのに、物語が進むにしたがってどんどん強さや行動力を見せてくれる。

その友人のミステリアスで硬派な女の子役の仁村紗和、スターになる素質十分だが夢破れるアイドル役の大場美奈、そして地獄少女の存在の謎を追うフリーのルポライター役の波岡一喜

どのキャラクターも、一筋縄ではいかない複雑さと人間的魅力に溢れた存在としてドラマを盛り上げてくれる。

 

ちなみに、波岡演じるルポライターの役名は「工藤仁」といい、白石監督のホラーシリーズ『戦慄怪奇ファイル コワすぎ!』における名物ディレクター「工藤仁」と同姓同名。

“怪奇の謎を探るためには危険にも飛び込む”という危ない性格をも受け継いだ形で登場するのでファン必見である。

 

まとめ

地獄少女』は映画版のオリジナルストーリーだが、これがかなり練られていて青春映画としても非常に面白い。

さらに女の子同士の友情物語であり、カルト集団を描いたオカルトサスペンスでもあり、原作アニメのファンタジー感をベースにしつつ、さまざまな面白さがバランスよく機能しているのは監督の実力のなせる業であろう。

 

ただひとつ、アニメを知らない人間から言わせてもらうと、閻魔あいちゃんと登場する3人の仲間のオバケがどうも必要性がわからなかった。

ただ脅かし要員としてそのへんにいるだけなんだけど、麿赤兒や橋本マナミ、楽駆と、妙に派手なビジュアルの面々なので賑やかし感が凄くてドラマとしては興冷めしてしまいがち。

わざわざアニメに寄せた部分なんだろうけど、原作ファンにとってはアリなのかどうかが知りたいところだ。

 

 

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つまりこっちのほうが見たい

 

高級SFに見せかけてまさかの超娯楽エンタメ『アド・アストラ』が最高だった

こういった宇宙モノSFに漂う孤独と絶望が大好物なので、制作サイドが“宇宙で『地獄の黙示録』がやりたかった”感満載のミーハー大作『アド・アストラ』は絶対に映画館の暗闇で体験したかった。

宇宙で人間が絶望する映画と言えば、過去に『2001年宇宙の旅』『エイリアン』『ゼロ・グラビティ』『サンシャイン2057』『イベント・ホライゾン』『ミッション・トゥ・マーズ』などいろいろあるが、本作はこれらの作品の面白いところを全部足して『アルマゲドン』で割ったような映画である。

 

つまりただの『アルマゲドン』。

 

クラシックを彷彿とさせる美しく感傷的なピアノの旋律を劇伴に、表向きは荘厳な宇宙空間と落ち着いた人間ドラマが描かれてはいるが、やっていることはアルマゲっている。

監督がマイケル・ベイで音楽がエアロスミスであれば容赦なく『アルマゲドン2』になっていたであろうムチャクチャな内容なのだ。

 

 

地球外生命体の存在を信じるあまり、国も家族も故郷も捨ててあてもなく20年も宇宙をさまよい続けるトチ狂った父親(トミー・リー・スペースカウボーイ・ジョーンズ)を、感情がほとんど欠落した精神病息子のブラピが探す。

いくつもの星と星を行きかう宇宙規模の特大スケールな設定なのに、展開するのはサイコな親子間の小ぢんまりとした個人的ストーリー。

しかも、父親捜しとまったく関係ないヘンテコな事件が次々と起こり、ブラピの周囲のクルーがバタバタと死にまくるのだ。

一見して深みと高級感のあるSF映像詩のような印象なので、コアな芸術作品に触れるかのように身構えるが、畳みかけるぶっ飛んだオモシロ事件と無意味でショッキングな惨劇の連続に観客は少しづつ気付き始める。

これはもしや超娯楽エンタメなのではないか?



 

主役のブラピは何事にも動揺しない鉄の心臓を持つ男。

そんな彼が軍部の最重要ミッションとして父親を捜す任務に就くのだが、そんな重要人物であるブラピをサポートする連中が全員そろってマヌケだらけ。

死神然としたブラピさんが、意図せず周囲のモブ連中をどんどん死なせる展開は『ジョー・ブラックをよろしく』へのリスペクトかもしれない(そんなわけねー)

死に要員の宇宙船クルー、略奪され要員の軍隊、裏口侵入要員のセキュリティがザルなロケット発射基地。

すべてがエンタメするためのご都合主義的要素になっていて、ツッコミどころが満載である(いい意味で)

美術的にハイセンスな映像とか、セリフ少な目で深刻そうな表情だけで追うキャラの心情とか、必要最低限なBGMとか、表向きの高級感にはそぐわない内容。

つまりは、雰囲気だけでなんとなく「美しく壮大なSF大作!」なんて感想を言ってしまおうものなら、思いっきりアホがバレてしまうようなハッタリ映画なのであった。

 

『ジョーカー』が民衆の英雄として祭り上げられるこの時代のリアルに乾杯!

 

働けども働けども困窮した生活から抜け出せない貧しいみなさん、社会との隔たりを感じ孤独感と絶望感にさいなまれているみなさん、自分よりも不幸な人たちには優しくしてあげたいけど幸福な奴らは全員死ねとか思っているみなさん。

そんな底辺な人々が「俺たちの神!」とか言って崇拝したくなるのもわかる『ジョーカー』誕生の瞬間。

 

なんか本当にいい話ですよね。

 

根は真面目で良識人でありながらも、その障害と不器用さで社会から虐げられまくり闇落ちしていくジョーカーさんに感情移入できない人は、いままでお金で困ったことが無い人か真正のバカかその両方かのどちらか。

特に、コメディアンを目指していたジョーカーさんが、逆にその「スベリ」具合を晒されて笑い者にされてしまうところなんか、俺はシンパシーを感じずにはいられなかった。

そんな世界一報われない男ジョーカーさんが笑顔と共についにブチ切れるカタルシス

クソったれな社会へのたったひとりの反乱は、民衆がため込んだ不満とストレスを派手に爆発させるトリガーにもなるのだ。

 

これはアメコミ映画であり、舞台は架空の町ゴッサムシティ。

なのに俺たちは、ジョーカーさんに自分たちの置かれた境遇を重ね、ゴミの散乱した薄汚いゴッサムに現実の社会を重ねるのである。

貧困層と富裕層の格差はどんどん広がり、なのに税金はますます絞り取られ、将来も老後も不安しかない俺たちの現実。

 

年金を払えだと? ふざけんじゃねえ! こんなゴミみたいな給料でいったいどうやって払えばいいんだ! 老後もクソもあるかボケが!

 

などと、思わず映画館帰りにダイソーのパーティグッズコーナーでピエロのマスクでも買って、そのままバカ笑いしながら街中で金属バットでも振り回してやろうかと思ったが、もちろんそんな非常識なことはしない。

せめてもの抵抗として、レンタルショップでいつもよりもちょっと暴力的なAVを借りるにとどまる小市民の俺。

そんな些細なストレス解消が、俺たちの怒りを制御する大切な自律神経安定の方法になってるのかもしれないよね(反論は却下)



ホアキン・フェニックスのすげー演技

 

もともとホアキンは演技派という印象だが、ジョーカーホアキンは体重も絞りに絞って神経衰弱ギリギリの演技を見事にこなしている。

ビューティフル・デイでの自殺願望に囚われた殺し屋役にも近いが、今回は例の “心が動揺したときに面白くもないのにバカ笑いしてしまう病” のおかげでさらなるブッ壊れ感を醸し出している。

 

ジョーカーさんの「バカ笑い病」は【ここぞ】というタイミングで発動するのが本当に素晴らしい。

 

俺も一度ツボに入ると笑いが止まらなくなる性分なので、TPOをわきまえずに笑いがこみ上げてくるスリルをジョーカーさんと共に追体験することができた。

「人がバカ笑いしている姿」って、周囲の人間からするとかなり気持ち悪くて異様に見えたりするもので、そんなジョーカーさんの病気を目の当たりにした人たちが精一杯の不快さを見せるところも世知辛くて良かった。

 

しかも、そんな男が目指すのがコメディアンであるという地獄の願望。

母親と暮らす冴えないコメディアンの男が、自分の才能を信じて空回りしまくる『キング・オブ・コメディ』(1983)という映画があったが、その主役を演じたロバート・デ・ニーロが、ジョーカーさんの憧れの人気コメディアンとして登場するというキャスティングの遊び心も凄い。

ジョーカーさんは拳銃を手に入れた際に、同じくデ・ニーロ&スコセッシのタクシードライバー』(1976)の真似事をしたりするのもアツいのだ。

 

どちらの映画も、孤独な男が社会から疎まれ徐々に狂った妄想にかられていく様を描いた作品であり、アメコミ史上もっとも有名なヴィラン、ジョーカーさんもまさにそんな夢も希望も無い生い立ちの人なんだよね。

ひとつだけ違うのは、この2作品が狂気にかられた男(どちらもデ・ニーロ)を憐れみながら観てしまう作品なのに対して、『ジョーカー』は、狂気にかられるジョーカーさんを応援しながら観ちゃうというところ。

似たような境遇の似たような人間であるにも関わらず、ジョーカーさんへの同情と共感が半端ない。

今がそんな時代であり、俺たちはゴッサムシティの虐げられた貧困層そのものだということかもしれない。

 

 

しかしこれはバットマンの物語でもある(ちょっとネタバレ)



本作は、ジョーカーさん誕生の物語であると同時にバットマン誕生の物語でもある。

可愛すぎる幼少期のブルース・ウェインくんとジョーカーさんが対面するシーンはファンにはたまらない瞬間であろう。

ラスト、ジョーカーの乱の勃発が原因でブルースくんの闇が生まれるという、まさに宿命ともいうべき因果関係にロマンチックが止まらない。

この映画は、決して可愛そうなオジサンがブチ切れて社会にケンカを売るだけの話ではないのだ。


 まとめ

『ジョーカー』は問題作としての宣伝が成功し大ヒットを飛ばしていて、バットマンシリーズであることが忘れられがちなところが寂しい。

鑑賞した人々のさまざまな意見が飛び交い、まるで『ジョーカー』について語ることがトレンドであるかのような勢いだ。

かくいう俺も、鑑賞直後にもっともらしい感想をtwitterで発信してご満悦であったが、そういった現代的な楽しみ方で映画が大ヒットするのもまた一興じゃないか。

ただ、ひとつ言わせてもらうと、『ジョーカー』観て絶賛してるやつ、他のバットマンシリーズもちゃんと観ろよ。